集合意識とディバイド・アンド・ルール
集合意識とはフランスのデュルケームが主に使い出した概念らしい。自分自身が何によって動機付けられているのか、行動の規範は何なのか そんなことを考えているとこの集合意識という感覚質に行き当たる。
デュルケームは集合意識を「一つの社会または集団の成員たちの間に共有された諸信念、諸慣行の総体で、成員個々人の意識とは区別される固有の生命と体系をもったもの」と定義している。
普段は無意識に隠れていて、何かの行動の時に意識に上がって来るような感じだ。フロイトの超自我とも似ている。
集合意識は個人の意識にしか実現されないが、個人の主義や主張とはことなる。自我を欠いている場合には、恐れの原因として集合意識が出てくる場合も多いだろう。
その集合意識を作る一つの歴史的な政策として「ディバイド・アンド・ルール」がある。
ディバイド・アンド・ルールは植民地支配によく使われる政策だ。地域や民族民族間を分断し力を集結させないようにする仕組みづくりだ。主に人の感情が利用される。
古代ローマは都市間に待遇の差をつけ連帯を禁じてある程度敵対するように仕掛けたり、19世紀のイギリスの植民地支配では、人種・宗教・地域で差をつけて敵対するように仕掛けている。日本では士農工商などがそれにあたる。
現在、日中韓はあまり良い感情を抱きあっていない。それはある種の集合意識を形成している。しかしそれは本当に自然に起きているのだろうか。戦後教育による影響はかなり大きいだろうと思える。自らの規範、従っている集合意識は何によって形成されているのか、よく自分の真相を探ってみる必要がある。
知らない間に、日本人の深層には西洋的な罪が埋め込まれている可能性もある。西洋諸国の戦争の歴史と帝国主義ということをもっと相対化していくべきだろう。その上で日本という国の政治を考えて行かないと集団的な自我を形成するのは難しいのではないだろうか。
こういった局面で哲学的な思考は役に立つ。
(マックス・ギンズバーグ、フェイ・アートミュージアム)