「労働」と「仕事」はぜんぜん違う、そしてその前に「活動」って概念を取り戻せ!
大人になると遊ぶのが悪いような、いつもマジメでいないと申し訳ないような、そんな雰囲気に飲み込まれてしまう。でも、なんかそんな雰囲気って腑に落ちない。誰かが良いこと言ってないかなーと神保町の書店を散策していると「遊びと人間 (講談社学術文庫)」という本に出会った。しかも、講談社学術文庫という学術系のレーベルから出版されている… これはもしやイケてる本なのでは!
さっそく購入して、まず著者のロジェ・カイヨワについて検索… 1913年にフランスのランスで生まれ、子供のころにパリへ、いわいるエリート教育を受けている。
ジョルジュ・バタイユが発起人となった社会学研究会(College of Sociology)などに参加して活動を行っていた。シュルレアリスムに対して、個人の無意識という想像の生(シュルレアリズム)ではなく儀式や共同性の力(社会学っぽい)というものに焦点を当てて活動していたらしい。
1939年にフランスを離れて、第二次世界大戦を回避。アルゼンチンで反ナチの執筆者・編集者として活動、戦後はユネスコで働き、多くの著作は1956年の「夢の現象学」以降に書かれている。1978年に没するまで世界を旅してまわったらしい。カイヨワ本人が40歳以降をほとんど遊びという活動に費やしているんだなーという感じがする。
「遊びと人間」で、カイヨワは遊びを4つに分類して、
1、アゴン(競争) とっくみあい(遊戯)、スポーツ(競技)
2、アレア(運) じゃんけん(遊戯)、宝くじ(競技)
3、ミミクリ(模擬) ごっこ遊び(遊戯)、演劇(競技)
4、イリンクス(眩暈) 子どもがぐるぐる回る(遊戯)、登山(競技)
そしてそれぞれに、遊戯(パイディア)レベルのものと、ルールがあるような競技(ルドゥス)レベルのレイヤーがグラデーションしていると言っていた。
遊びの獲得を心理学的にみてみると、乳児期には眩暈を覚え、幼児期には模擬を、児童期になると競争、運を試し、思春期・青年期以降になるとスポーツ活動、文化活動を趣味として楽しむことで、遊びを獲得していくなーと。とっても腹落ちする分け方だった。
現在はスマホゲームなどの開発にゲーミフィケーションという概念が使われているが、カイヨワの分類もかなり影響を与えているだろう。でも、ゲーム開発者とユーザという区分けを作ってしまうんじゃなくって、全ての人が遊びに自覚的になることで、人生を謳歌できる人が増えるんじゃないかと思える。
音楽で色々な遊びを試した人と言うとエリック・サティ(1866年-1925年)が思い浮かぶ。ちょっと時代は違うけれども、同じフランス。けっこうな影響があったんじゃないかと思った。
遊びを獲得できる子供は家庭に所属してある程度の安全や食事が保障されている。遊びは、なぜできるのかは身体性の維持が担保されていることが大きい。これは大人になっても同じだ。
そこで思い出したのが、ハンナ・アーレントの「労働」「仕事」「活動」という概念。ハンナ・アーレントは「人間の条件 (ちくま学芸文庫)」という本の中で、人間のエネルギーの使い方を「労働」「仕事」「活動」の3つにわけている。(アーレントはこのエネルギーをヴィタ・アクティーヴァと呼んでいる。)
労働は身体を維持するのに、どうしても必要なこと。ここは大いに合理化すべきだと思う。活動は遊びと解釈できそうだ。人間はこの遊びという活動の時間が増えたら人生楽しくなると思う。
そして仕事。日本人はもともと仕事がアートだったから分かりにくいのだが、仕事は労働と違って、活動から生まれた法則や期間限定の秩序を修練していく作業としてとらえて、アートと解釈するとしっくりくる。
(アーレントの定義)
----------------------------------------------
労働laborとは、人間の肉体の生物学的過程に対応する活動力である。人間の肉体が自然に成長し、新陳代謝を行ない、そして最後には朽ちてしまうこの過程は、労働によって生命過程の中で生みだされ消費される生活の必要物に拘束されている。そこで、労働の人間的条件は生命それ自体である。
仕事workとは、人間存在の非自然性に対応する活動力である。人間存在は、種の永遠に続く生命循環に盲目的に付き従うところにはないし、人間が死すべき存在だという事実は、種の生命循環が、永遠だということによって慰められるものでもない。仕事は、すべての自然環境と際立って異なる物の「人工的」世界を作り出す。その物の世界の境界線の内部で、それぞれ個々の生命は安住の地を見いだすのであるが、他方、この世界そのものはそれら個々の生命を超えて永続するようにできている。そこで、仕事の人間的条件は世界性である。
活動actionとは、物あるいは事柄の介入なしに直接人と人との間で行なわれる唯一の活動力であり、多数性という人間の条件、すなわち、地球上に生き世界に住むのが一人の人間manではなく、多数の人間menであるという事実に対応している。たしかに人間の条件のすべての側面が多少とも政治に係わってはいる。しかしこの多数性こそ、全政治生活の条件であり、その必要条件であるばかりか、最大の条件である。
----------------------------------------------
青年になると「自分とは何か」「自分には何ができるのか」「他人との区別はなにか」といった問いを持つ。ここで、行われるのが自己同一性(アイデンティティ)教育だったりする。大人になってから、たまに自己啓発にハマったりするのも、この自己同一性がほしかったりするためだ。
やっかいなのが、労働と自己同一性を一致させてしまう場合だ。労働と活動とアート(仕事)を分けたけれども、何のために労働するのかを再確認すると、それは身体の維持のためだ。労働はアイデンティティではない。その作業がアートの領域まで高められてお金をもらえているのであれば、なんも問題ないのだけど、労働のままアイデンティティをタグづけいていくと、かなーり不幸なことが起きる。
WHOは痛みを4つあると定義している。
1、身体的 身体の痛み
2、心理的 不安、恐れ、苛立ち、孤独など
3、社会的 仕事や家庭や地域の問題
4、スピリチュアル 人生の意味、罪の意識、死の恐怖
4つの痛みは絡み合って人の意識に情動体験として現れる。労働とアイデンティティをくっつけてしまった場合は、社会的な痛みが起きて、他の痛みも誘発する。
最低限の労働はしょうがない。それは身体を維持するため。でも本来は活動の時間を長くして、できたらアートの領域までいっちゃたりすると、いいよねという話。
活動という概念が分かりにくいから、カイヨワの4つの遊びに自覚的になって、遊びをクリエイトしていく立場に立つ。そうると、活動の本質が見えて、労働とアートの区別もついてくると思う。
石塚