意識の立ち上がりへ回帰してみる。
近代的自我は、他者との境界が明確で自由意志をもった責任を取れる主体。人が何かをするとは、意志をもって行動することである。よって人は自分の行動に対して、責任を取らなければいけないと言われる。しかし、そもそも意志があるってなんだろう。
精神症状などを考えてみると、アルコール依存症や薬物依存症は本人の意志ややる気でどうにもならない。正月の誓いなんて3日坊主の典型だし。こうなると、意志なんて、ほとんど当てにならない。
多くの人は、日常の些細な場面から人生の大きな節目にいたるまで、各人各様に、「する」と主体的だったり、「させられる」って受動的に行動していると思い込んでいるのではないかな。でも、「意志」や「責任」というものに大なり小なり懐疑をいだいたりすることもある。
→『中動態の世界 意志と責任の考古学』
「普通」「正常」「当たり前」「常識」「社会人は」「男は」「女は」・・・これらの言葉の裏側には規範があり、秩序にあてはめようとする同調圧力がある。問題なのはそれと気づかず過剰に適応してしまうこと。無意識にそれが刷り込まれていくと、行動がコントロールされていることがある。でも、それに気づくのが「違和」なのだ。
→『「普通がいい」という病』
精神医学の世界では、正常異常の境界を判断がマニュアル化され異常者を量産し、薬漬けで正常を回復させようとする事が進んでいると聞いた。 DSMなどの精神医学では線引きするのではなく、スペクトラムで表現するのが流行だとか。
→『<正常>を救え 精神医学を混乱させるDSM-5への警告』
日常も日常から隔離される病も、問題の根っこは深いところで繋がっている。制度をすぐにどうこうするのは難しいので、当面の解決策は自分自身。瞑想などは、すすめていくと、インストールされていた言語がカッコにはいり、意識のコアは阿頼耶識の海に溶け出し、すべてと静かに繋がり、おおきななにかに包まれた感覚になる。言葉の囚われからものがれることができる。
瞑想をすると、身体の声が聞こえるようになるとか。身体というのは、媒体としての現象的身体のこと。
最近やってる神保町サロンでも同様のことを語っています。
近代化は、国民国家化、国内の産業革命=工業化、経済成長前提のシステム、そして文化的には西洋化すること。
そういう近代は終わってるはずなのに、近代の惰性がわれわれを縛っているようだ。医療も年金も成長前提。上場企業は成長を要求され、政治も成長の物語でしか政権を維持できない。
サロンに経済の専門家にきてもらったこともある。社会保障制度の財政(年金・医療・介護)はかなりやばいらしい。
国家が描く成長の物語から少し抜け出して、ニーチェの言う子供になってみてもいいかもしれない。ニーチェは、ラクダ:制度隷従者、獅子:自由に目覚めたもの、子供:道徳や規範からも自由な存在と言った。神保町サロンは、自由に目ざめ、子供になっていくための場所なのかなーと。
奥山