ソクラテス、プラトン、アリストテレスで概念を整理する。
ギリシアには知識があり喋りが上手なソフィストと呼ばれるメディアっぽい人たちがいた。彼らは金銭と引き換えに知恵を教えていた。しかし、論理の力で無理やり納得させたり、金持ち相手にばかり商売していたという逸話が残っている。
ソクラテスはソフィストの批判者として扱われることが多い。ソフィストは「普遍的な真理は存在しない」というテイで、その場を繕うようなビジネスをしていたのだろう。ソクラテスはそれを批判して、「無知の知」という概念を作り出した。無知の知を前提としながらも、なにか法則性や秩序がないのか考えた。
それを引き継いだのはプラトン。プラトンは「イデア」という概念を作った。イデアとは事物の本質のこと。本質という精神世界とも理論物理ともとれる概念を作り出したことによって、問いの立て方に深みがでた。
プラトンは「想起説(アナムネーシス)」というのを唱える。イデアは見つけるものじゃなくて、もともと知っているのだから思いだせばいいんだよと言う。
そして、もう一人アリストテレス。プラトンが現実世界(現象界)とは別の部分にイデアという概念を置いたのに対して、アリストテレスは、イデアは現実の中に存在すると主張した。
アリストテレスは「質量と形相」という概念を作り出した。質料と形相は、材料と設計図のようなものと置き換えられる。
プラトンの思想は救いの宗教的だ。プラトニズムといって、後の宗教にもかなり影響を与えている。
アリストテレスは「質量と形相」という概念をつかって、様々なものを今でいう工学的に分解した。論理学から始まり、宇宙、天体、気象、物理などを分析したり、人間の心理にかかわる詩や演劇、そして少しバイオロジカルなものまで多岐に及ぶ。最終的には倫理学にまで到達している。アリストテレスは理性的に生きるためには、中庸が大切だと説いている。
プラトンとアリストテレスの違いは、「アテナイの学堂」という絵画に表されている。いわいる、天を指さすプラトンと、地に手のひらをかざすアリストテレスというやつだ。ラファエロ・サンティによって、アテナイの学堂が書かれたのは1509年と1510年の間だ。しかし、プラトンが生きたのは紀元前427年から前347年までだし、アリストテレスは前384年から前322年だ。アテナイの学堂が描かれたのはプラトンとアリストテレスの時代から1900年も後のことだ。一緒に語るには少しためらいが入る。かなりデフォルメされているに違いない。うふふ。
プラトンは宗教、アリストテレスは科学って感じだけど、プラトンのような超越論的なアプローチがあるからこそ、解体だけじゃなくて、新しい概念が生み出される。
※写真は東京大学哲学科出身の To Bias さん。シンボリックで、とても素晴らしい写真だ。
※両方とも日本で撮られたものだ。生と死がある。
大手製薬会社はPureTech Health(ピュアテック)のような会社に置き換わるのか?
▼伊藤穰一氏がホストを務める「THE NEW CONTEXT CONFERENCE(NCC)」を取材。今年のNCC(15回目)のテーマは「ITとバイオテクノロジーの融合が導く未来」と「ブロックチェーンの真価と進化」。
一日目は、バイオとITがテーマ。機械学習(ディープラーニング)などを含むIT技術と、バイオの連携がどんどん深まっていることが分かる講演のラインナップ。
ヘルスケア系のビジネスは、技術がでてきてから動くスピード感ではなく、科学論文を読んで技術を予測して動くスピード感になっている。ただヘルスケアといっても専門の会社だけでなく、エンターテイメントなどの会社など、あらゆる会社がメディカルの情報を収集して、予防に寄与したり、治療に介入したりする可能性が広がっているのが分かる。
注目の登壇者は、ファイザー株式会社から瀬尾亨さん、日本ベーリンガーインゲルハイム株式会社から鈴木忍さん、ペプチドリームから岩田俊幸さんそして、Keynoteセッション「次世代型製薬会社の構築」の登壇者として、PureTech Healthのエリック・イーレンコさんだ。
特にPureTech Healthは次世代型製薬会社の形態と評されている。バイオテクノロジー分野をベースとして、異分野との組み合わせによる新たな技術の創出、サービス開発を行いながらも、自ら先進的なスタートアップを立ち上げたりしている。
「PureTech Health」
http://puretechhealth.com/
ファイザー社のAIを使った戦略
SONDE社のボイスを使った認知症の早期発見システム
生命科学・ヘルスケア分野における データ解析のプラットフォーム「Garuda」
午前中のパネルティスカッションでは、伊藤氏が「技術発展のスピードが速くなると、学際的な研究をベースにしたビジネスモデルは続かなくなるのではないか。そうなると大手の製薬会社はどう舵を切る?」とパネラー(ソニーコンピュータサイエンスの北野さんら)に質問していた。
パネラーは「資金力を活かしてまずは投資家として生き残るし、現在の薬剤などの生産能力を活かして、ビジネスモデルを変えながらも、残っていく。製薬会社の中には、デジタル分野に対して、すでに関心を大きく開いているところもあるし、IT系の会社との連携も進んでいる。」などと回答。うーん。もっと具体的に動いているはず。守秘義務などもあり、突っ込んだことは答えられないかなという印象。
伊藤氏は午後のパネルディスカッションでも、PureTech HealthのEric Elenko氏に対して似たような質問をした。「大手製薬会社はピュアテックのような会社に置き換わるのか?」作ってしまった制度を回避して、どのようにテクノロジーを素早く社会に溶け込ますのかという思いを感じる。
PureTech HealthのEric Elenko氏は「我々は大きな製薬会社と連携することもあります。開発会社は研究開発は行っても大規模な臨床治験をするのは難しい。大規模試験をするには大手製薬会社の方が優れている。今後は、研究開発、マーケティング、流通の役割分担がより明確になるのではないか。」と回答。クライアントでもある製薬会社に配慮ある発言だった。
伊藤氏とEric Elenko氏のパネルディスカッションの様子
個人的に、伊藤氏の発言で気になったのは、キッチンで実験しているスライドを見せて、「遺伝子をデザインして、プリントして、バクテリアに入れて、リブートする。それがキッチンでできるよ」のところ。これは伊藤氏の過去のブログを発見。
※キッチンカウンターでバイオハック(伊藤氏のブログから)
2日半の作業で、我々は10年前だったらノーベル賞ものだった仕事をキッチンでやってのけた。遺伝子配列を設計し、それを実際に合成し、バクテリアに導入したうえでそのバクテリアをリブートしてみせたのだ。
(https://joi.ito.com/jp/archives/2014/08/25/005555.html)
そして、これが進んだ形が、「DIYバイオ」や「STREET BIO」という概念になっていくのだろう。
「STREET BIO」
http://www.emwbookstore.com/street-bio/
こういう感覚値が、制度関係なく、生活やビジネスを加速させていく源流になりそうだけど、どう医療制度と折り合いをつけていくのかといった点は今回のカンファレンスでは答えにまで至っていなかった。
※おまけ
もう一つ気になったのは合成生物学。合成生物学は生物学をベースに、生命を全体論的に理解しようとする学問で、主に工学との融合で生物現象を理解しようとする学問。
Synthetic biology Latest Research and Reviews
https://www.nature.com/subjects/synthetic-biology
担当:石塚
「博物ふぇすてぃばる!」で 土偶の新作を発表~ 20147/7/22 @九段下
7/22、23と九段下の科学技術館にて「博物ふぇすてぃばる!」が開催されました。
個性的な出品が多かった模様。togetterで当日の様子が分かります。
そんな中、神保町サロンのメンバー「真千子氏」が土偶を出品していました。
真千子氏によると、縄文時代は約1万3千年もの間、戦争もなく平和に人々がムラという単位で社会を作り狩猟や採集をしながら自然と調和するサスティナブルな生活を営んできたとても魅力的な時代とのこと。日本の縄文遺跡からは武器のようなものは発掘されず、大きな争いで亡くなったような痕跡も見つかっていないとか。そんな背景の中、楽しみながら活動が発展して、土偶や縄文土器の制作がされていたのかもしれません。
さて、真千子氏の新作土偶はガラスと石膏で作られ、顔がないのが特徴とのこと。当日の参加者は、顔がないことに気づかない人が多かったようです。現代人より縄文人の方が顔というアウトプットに敏感だったのかもしれません。
■マチ子氏(alinomanimani代表、縄文ハンター兼アーティスト)
日本の狩猟・採集時代をテーマにジュエリー、金属作品やプロダクトを制作している。
2007年多摩美術大学卒業。2009年ヒコみずのジュエリーカレッジキャリアコース修了。美術教室講師、ジュエリー企画、販売を経て、2015年より自作のジュエリーを制作、展示、発表を始める。
近年はDNA解析や研究がかなり進歩しています。2016年には、国立遺伝学研究所集団遺伝研究部門および総合研究大学院大学遺伝学専攻の斎藤成也教授らのグループが、福島県北部にある三貫地貝塚から出土した縄文時代人(縄文人)の歯髄からDNAを抽出して、核ゲノムの一部を解読することに成功しています。
【プレスリリース】『縄文人の核ゲノム配列をはじめて決定 〜東ユーラシア人の中で最初に分岐したのは縄文人だった〜』
【プレスリリース】『縄文人の核ゲノム配列をはじめて決定 〜東ユーラシア人の中で最初に分岐したのは縄文人だった〜』
このような研究は人類観に変化をもたらします。このような研究が進めば、日本列島およびその周辺において、人々の移動や混血がどのように繰り返されてきたのか解明できるかもしれません。
「縄文人ゲノム解読 私たちのルーツは」(時論公論 NHKの解説記事)
「縄文人ゲノム解読 私たちのルーツは」(時論公論) | 時論公論 | NHK 解説委員室 | 解説アーカイブス
創作とは、超越論的な構造を捉え、経験をアウトプットしていく行為なのだ。
神保町サロンでは創作活動をしている方が多く参加してくれます。
言語で創作活動や芸術活動を語ることは難しい。でも、神保町サロンの概要を伝えるために、しょうがなく… フォー
創作は何かと考えていくと、あるとき捉えられるクオリア(感覚値)を、それはどう認識されているのか(構造)を捉え、認識したものはなんだったのか(経験)をアウトプットしていく行為だと思う。
それは、時に新しい概念だったり、新しい組み合わせだったり、何かの再発見だったりする。
創作物と、鑑賞者が相互に作用し合って感動が起きることもある。
感動とは、深く感じて、心が動くことで、決して感情だけでなく、論理、精神、スピリチュアルなものの変動も含まれる。
それは気づきと言い換えることもできそうだ。
気づきには、今までにない体感や、脳内の再構築が伴う。
では、気づきをくれる創作やクオリアの根本的な指向性は何かと考えていくと、一番良い言葉は「真善美」ではないかと思う。
ここでカントの超越論と超越論的という概念を思いだしてみたい。
カントは超越的という概念を人間の経験を越えて認識できないものとして説明している。そして、超越論的とは、超越的な認識をいかにして可能と
するかという根拠や条件としている。
超越という感覚は昔からあって、ギリシアのプラトンらが説いた「イデア」もそうだし、近代の神という概念もそうだ。現代人は拠り所として、お金や愛なども超越的なものとして志向しようとする。これは人間の思考のクセのようなものではないかと思う。
繰り返す。創作とは、超越的なものに対して、どう認識されているのか(構造)、認識したものはなんだったのか(経験)をアウトプットしていく行為だ。このアウトプットに再現性があり、鑑賞者に深い気づきを与えられれば、それは芸術になっていくのではないだろうか。
まず、真善美を捉えるセンサー、そして、再現する技術、この二つが組み合わさったときに、あっと驚くようなものができるのだ。
※6月28日の参加者は、うんちマン。 うんちマンは美大の大学院卒で、ゲームをたくさん作って人を幸せにしている天才なのだ。芸術のことを教えてくれた。
ARの本当の凄さは、日常生活の情報処理そのものが変わることにある。
AR(Augmented Reality)といえば… 何をおもい浮かべるか… ちょっと調べるとMicrosoftの「HoloLens」のイメージ映像なんかがでてくる。
とってもビジュアルに凝っている。最初見ると驚くが、この映像はプレゼン用に作られている。ちょっと考えてみるととARの本質的なことって、見た目の凄さではないこと気づく。見た目にこだわるのはVR(Virtual Reality)で対応する方向性になっていくだろう。映画館がまずその役割を担うんじゃないだろうか。
ARのすごいところは、「視覚情報から得られた情報が、脳ではなく、インターネットを通じて膨大なデータベースと処理システムに接続されて、人間の行動に対してレコメンドを行う」というところにある。
日常生活において、目と脳だけで処理していたことが、リアルタイムの処理にコンピュータが入ってくるのだ。「ちょっと待って、いまスマホで調べるね」といって、スマホで調べてから行動することがあるが、この手間が無くなり、さらに処理が拡大されるとも言える。
ARが進化していけば、日常生活の情報処理そのものが変わる。
アーティストなんかは視覚から得られた情報を他の箇所と連携させて処理させることの訓練を受けているし、自覚的だったりするが、その感覚値がARによって拡張されるだろう。
これは、人生というか、生活、活動といった抽象度でのクオリア的な感覚を選択できるようになっていくと言える。フィクションの領域の強度を高められるという感じだ。同時に大事になるのは相対化だろう。
たとえばインターネットの検索エンジンの仕組みに鈍感だと、情報が狭められていると気づかないのと同様に、ARの場合も判断をやめてレコメンドシステムだけに頼ると、けっこう危なくなる。
それぞれの個人が選んだフィルターで世界を見るようになっていくし、しかもそのフィルターは他の人から確認できないであろうから、これまで以上に個々人の情報に対するリテラシーが大切になっていく。
V・S・ラマチャンドランらが著した「脳のなかの幽霊」という書籍がある。
取り上げられているトピックスは広範だ。幻肢、盲視、錯覚、サヴァンシンドローム、てんかん、笑い、そしてクオリアなど。
強固なものとして存在している時間や空間、そして自己やリアリティなどは、実は作られたものであると気付かせてくれる。
石塚
XジェンダーのXってなんなのー??
日本ではある性の在り方を、X(エックス)ジェンダーと呼ぶことがある。女性とか男性とかのレイヤーではないメタな概念という感じだ。
Xジェンダーと名付けた背景には、プログラミングで使われる変数、つまり 何を入れても良い変数Xだよ という意味があったに違いない。
プログラミングにおいて代入は「assign」で、割り当てるという感覚。自分で割り当てているという当事者感がある。普段はセクシャルを意識していないが、ある文脈がきたときには、一瞬だけ明確になったり、ブレンドしたり、また靄になったり、意識しなくなったり。そういう感覚は、プログラミングの変数へのアサインに近い。
では、観察者的な視点からXを見た時どうなるかというと、未知・不定なる何かであって、ジェンダーに置き換えてみると、ジェンダークイア(queer)と呼んでしまう感覚になる。男性・女性などのアイデンティティを持つ人が、Xジェンダーを外部からみると、女性とか男性とかと同じレイヤーのアイデンティティを代わりに置きたくなる感じだ。
心理学にはアイデンティティを持たないといった意味でモラトリアムという概念があけれども、変数やモラトリアムという感覚、さらには現象学的なエポケー(モノゴトをいったんカッコに入れておく)を理解しているとXジェンダーという感覚を掴みやすくなるんじゃないだろうか。
Xジェンダーの研究者 Dr.ソンヤ・ペイフェン・デール氏はXジェンダーという概念・言葉について、こう指摘している。
「2013年にウィキペディアにXジェンダーが掲載されることで、定義が固定化されてきてしまった。それ以前にXジェンダーを自らのセクシャルを説明する概念として使っていた人たちが、もう使わなくなってきた」
Dr.ソンヤ・ペイフェン・デール氏
https://www.youtube.com/watch?v=BTG3kML7Cxs
http://intersections.anu.edu.au/issue31/dale.htm
言葉や概念は広まるにつれて内容が固定化する。言葉が素材として情報交換に使われるため固定化するというのは一つの言葉の良いところだが、せっかくXと言っているのだから、XはXのままでいいのだ。
2017/6/14の神保町サロンには大阪大学大学院(人間科学研究科現代思想)で哲学を研究しているイリヤさんがゲストで来てくれました。
「il y a」とははフランス語で「存在する」という意味。イリヤさんはレヴィナスやフッサールを使ってジェンダーを研究しています。
xジェンダーに関していえば、そもそも「ジェンダー」という概念を否定するような存在なので、「ジェンダーX」=「ジェンダーとはそもそも記号化できない」という名称の方が良いのかなと最近は感じています(「Xジェンダー」だと、ひとつのジェンダーとして実体化されてしまうおそれがありますし、事実、そういう流れが出てきているので)。
神保町サロンの様子(2017/6/14)
性ってどのように捉えるとわかりやすくなるだろうか。ちょっと簡略化しすぎではあるけれども、何もトッカカリが無く理解が難しい場合には、「生物学的な性別」、「ココロの性別」「恋愛対象/性的指向」の軸に分けて考えれば日常生活では十分ではないだろうか。(せっかくXジェンダーとしているのに、議論を戻すようで、なんとも言えない気持ちにもなるけど…)
「生物学的な性別」
男性/女性/両性
「ココロの性別」
男性/女性/X
「恋愛対象/性的指向」
男性/女性/バイセクシャル・パンセクシャル(両性・全性を愛せる)
たとえば、身体は男性だけど、ココロがXだったり、女性だったりして、恋愛対象がパンセクシャル(全性を愛せる)ということがある。外側からみるとノーマルに男性が女性を好きと思われるかもしれない。
だけれども、身体が男性っで、ココロが男性で、恋愛対象が女性の方とは、ふるまい方や、恋愛の仕方など、かなり違いがでてくる。
イリヤさんがサロンの雑談の中で、「ヘブライ語にはbe動詞にあたる言葉はない。レヴィナスがbe動詞を避けて『存在の彼方へ』を書いた理由はそこにある。男性や女性になっているのではなくて、なるのである」と言っていたのがとっても印象的でした。
「ココロの性別」と「身体の性別」という区分についてなのですが、たしかに性同一性障害の基準でも「心の性と体の性が一致しない状態」と定義されており妥当な区分です。しかし、この区分にはいわゆるデカルト的な心身二元論の焼き直しではないかという疑義があります。「そもそも心に性はあるのか(中村美亜さん)」という著作があるように、いわゆる「ジェンダー」を心に帰属させることができるのかもっと根源的な問いがあるのです。そのために僕はトランスジェンダーを「ジェンダー」からではなくあくまでも「違和」から論じることにしています。
LGBTという性の多様性はブームになっているけれど、結局は個々人のアイデンティティの確立問題や、説明のめんどくささ、数の空気に押し込まれるなどの課題をどう解決するかということが大切。
エポケーのような哲学的な認識の方法論を持っていると、すんなりとXジェンダーと言われても、そうなんだー と納得できるはず。様々な人の認識法に対して憑依できれば、コミュニケーションは円滑に進むはず。
男性、女性という言葉が、身体のことだけでなく、ココロの指向性までも規定するような強い拘束力を持っていることに気づいて、それをひっぺがしてみる。
神保町サロンや、いりやさんが主催する哲学カフェでは、違和を感じた人が、気軽に好きに発言できるような環境があります。違和を普通に話せるのって、楽になるし、活動的になるし、遊びが始まるって感じです。
石塚