神保町サロン(物語から解放される時代を生きる)

神保町を中心に活動やアートを指向する集団です。

1200年続く高野山には、永続的なビジネスシステムが動いていた。

関心のきっかけは、神保町サロンに来たゲストが「高野山の宗教都市は空海が作ったシステムで、まだそのシステムは生きている」、「空海は、結界を張って流れを創った」と立て続けに高野山空海関連の話をしていったからだった。

 

そこで、実際に高野山を訪れて、私のビジネスの領域とも重ね合わせ「高野山を舞台に空海が作った壮大なビジネスモデル」という視点で見てみたいということに関心が向いた。

 

高野山には、10万とも20万とも言われる墓や慰霊塔、供養塔が並んでいる。戦死者の供養塔は、戦地や戦隊などに分かれあちらこちらにあるし、生きた時代には争い合った戦国武将らの墓も、今は静かに向かい合っている。しかし、いまだ誰のものかわからない墓が多数あるという。戒名から実名を割り出す気の遠くなる調査が続いているそうだ。

 

 

 

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高野山の二大聖地のひとつである壇上伽藍の周辺を歩いている時、壇上伽藍の大塔で立体曼荼羅に入った時、霊宝館で金剛界曼荼羅胎蔵界曼荼羅に囲まれた時、息苦しさや内臓の鈍い重量感を感じた。二日酔いに似たような、他で感じたことはない感覚があった。

 

数多くの五輪塔などを見て、人はこんなにも救われたいのかと思う反面、ここで救われるなら、安らかになれるかもしれないとも思った。

その場の空気は静かで重く、ときに息苦しさを感じるほどの囲まれ感と秩序感でもあった。早くここから脱け出したいとも思った。

 

静かに重い秩序感・囲まれ感、それは強い権力的なもの、外圧的なものではなかった。透明感のある、破れそうで破れない薄膜のような。外からの力だけでなく、人が内面から求めてできあがった秩序。それをつくったのは空海だが、救われたいという心、即身成仏を求める多くの心がそのシステムを維持してきたのだろう。

 

自分の両親は、いろいろ事情があり、入る墓がないという。散骨してと笑っていたけれど、昭和ど真ん中世代の価値観を考えると本気とは思えない。これだけの心が集まり、多くの人が常に参拝する、こんな地ならさびしくないし、毎日祈ってもらえるし。ここに眠りたい、眠ってほしいという気持ちは、それは至極自然なものかな、そのためにお金使うのもわかるよね、だってお金はあの世にもっていけないし、なんて俗っぽいことも考えながら、もう一つの聖地である奥の院へ参道を歩いた。

 

壇上伽藍のあたりを抜けて、奥の院への参道付近では息苦しさが無くなった。空気の質感が違って感じられたのだ。とても面白い体験となった。

 

ところで、高野山は宗教都市であり観光地でもある。

 

しかも、一朝一夕でできあがった観光地ではない。1200年の歴史がある地だ。この現実に、実はやや驚きがあった。

 

戦国時代、宿坊は、高野山の寺院にとって、生き延びる術になっていた。寺院を守ってもらう代わりに武家と檀縁を結び、経済的な援助も受けていたという。戦国武将の墓所が多いのは、この時代からの縁に由来する。江戸時代には、参拝客に宿泊を提供していた。

 

インバウンドが盛んな今は、宗教都市としてミシュランなどに掲載されているらしく、欧米からの外国人観光客が多い。宿坊を営む僧侶は外国人観光客相手に英語で対応をしている。夜には、観光客受けを意識した奥の院ナイトツアーなども開催されている。また、WIFIを完備し天然温泉をひく寺院もあった。宿坊と観光が、高野山と寺院の経営を支える重要な事業であることは、時代背景が変わっても同じようだ。

 

1200年続く高野山、そこには、ビジネスシステムとしての永続性が考えられ、組み込まれ、継承されているのだと思う。ビジョン、目的、経営資源、人材、共感されるSTORY…。

 

空海の作り出した仕組み、このあたりをもっと掘り下げて調べようと思った。興味は尽きない。


高橋