神保町サロン(物語から解放される時代を生きる)

神保町を中心に活動やアートを指向する集団です。

生きるセンスを描いた映画「この世界の片隅に」


神保町サロンにて「この世界の片隅に」が話題になっている。今後のネタにもなるので少しブログに書いておく。

 

この映画を一言で例えるなら「生きるセンス」を描いた映画と言えるのではないだろうか。

 

全体を通してカット数は多いと感じた。特に前半は記憶処理のようにシーンがパッパ切り替わる。絵そのものの情報量は多く、写真でいうとパンフォーカスというか、絞りがなく、画面全体に様々な情報が散りばめられている。

 

このような情報の多い描写の中で、すずは自然や社会状況や構造からくる情報をそのまま受け取っているように描かれる。それは自分のストーリーを生きるための意味づけの情報処理ではなく、常にパラレルワールドを意識したような情報処理をしているとも言える。

 

映画の中にでてくるすずの絵は写実的なものが多い。世界を記述しようという活動、遊びだ。レシピなどもメモしていたり、軍艦を書いて憲兵に目をつけられるあたりは、すずの情報量の多さが分かる描写だろう。

 

映画の中で繰り返しでてくるテキストに「爆弾落ちたら魚が浮く」というものがある。これは普段は質素に配給で暮らしているが、爆撃があると魚が巻き込まれて死んで海に浮いてくるので、食料が増えて嬉しいというものだ。これは戦争は最初は国同士の戦いから始まるが、そのうちに戦争そのものと市民の生活との戦いになることを上手く言い表している。生活視点の民話のような構造だ。すずの書く絵もすべて生活という視点に還元されていることは生活者の強さが現れていると言えるだろう。

 

映画の終盤で、すずは空爆を受け一緒にいた義理の姉の子を守りきれず亡くしてしまい、すず自身も右腕を無くす。さすがのすずも喪失感にかられるが、子供のころからの知り合いで、遊郭に売られたリンから「人間何かが足りないことはあっても、居場所はそうそう無くなりゃせん」と言われ徐々に活力を取り戻していく。ここはアニメよりも漫画の方がより描写が細いようだ。

 

最後では、いままですずの視点で描かれていた映画に初めて他者視点が入る。広島の原爆で母を失った子供の視点だ。その子は生きる力そのもので生きようとしている。パラレルワールドを自然にやってのけるすずはこの子の視点をすぐに受け入れて一緒に生活を始める。すずの生きるセンスを強く感じさせる描写だ。

 

人は何かを失う。しかし逆に何も持っていないということは、何かを受け入れやすい状況にあるともいえる。所有の強度とは何なのかについて考えさせられる。