神保町サロン(物語から解放される時代を生きる)

神保町を中心に活動やアートを指向する集団です。

空海の情報空間と、システム的思考方法。


最近、真言宗の宗祖・弘法大師空海さんが神保町サロンで話題になっている。メンバーの数人が高野山にいき、その空気感を伝えてくれたのでメモとして残しておこうと思った。

 

空海が伝えたのは「密教」だが、仏教をさかのぼっていくと、古代インド思想にたどり着く。古代インド思想は、紀元前1500年くらいのものが、西洋の文献に記されているようだ。原始仏教や根本仏教、primitive Buddhismと呼ばれている。

 

このころは、自然や集合意識的なものを「梵(ブラフマン)」と呼び、個人の自我的なものを「我(アートマン)」と呼んだ。そして、これらを統合するために、「梵我一如(ぼんがいちにょ)」という境地にたどり着こうとしていた。

 

密教はこういったところにルーツを持つが、これらと違い一番特徴的なところは、「即身成仏」だろう。空海密教以外を「顕教(けんきょう)」と言ってちょっと批判的に捉え、多くの顕教は、悟る、成仏するためには、何代にも渡って生まれ死に変わりながら、修行が必要だと説くが、密教では修行によって現世で肉体を持ちながら成仏することができると説いた。

 

「即身成仏」とは、生まれとか関係なく修行すればみんなも心地よい境地に行けちゃうよということだ。

 

それが見事に表されているが、空海が24歳の時に書いた「三教指帰(さんごうしいき)」だ。当時は、「聾瞽指帰(ろうこしいき)」とも呼ばれていた。

 

8500字数に及ぶ漢文で、「文選」「芸文類聚」「初学記」を辞書代わりに、「史記」「漢書」「三国志」「世説新語」「顔氏家訓」、儒教論では「四書五経」、道教論では「老荘」「准南子」「抱朴子」、仏教論では「法華経」「金光明最勝王経」などから情報を得て編集しているという。

 

松岡正剛はこの空海の作業のことを、「日本最初の総合編集思想の試み」と言っている。そりゃそうだわなー。空海のもっていた情報空間っていったいどんなのだろう探りながら近づくととても楽しい。空海は遊び系の人かと思っていると、けっこう秩序系でもあったりする。マンダラを見ているとそう思えてくる。システム的な循環を成立させるために無理をしてくることもありそうなのだ。

 


空海の著作ペディア(三教指帰
http://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-writing/post-105.html

 

▼サロンメンバーTさんから見た高野山

1200年以上、この町のシステムが続くのは理由は何か。宿坊は外観、お勤めが無いと、ただの民宿。しかし、歴史を調べると、昔から宿坊をやっている。

生きているうちに救われたい、意識の弱さ、という人間の弱さに対して上手に入っていっている。真言宗では即身成仏という概念を使って、理論的に上手に積み上げている。

空海平安時代の政治の仕組みに入り、高野山を一つのメディアとして使い、参拝や座禅によって身体性を支配して、マンダラなどを使って精神に入っていく。マンダラはGUI。さらにシステムが継続するように、教育を押さえている。小さい町の中に保育園から大学院まである。

真ん中から壇上伽藍のあたりは、結界というか、洗脳されてしまうというような感覚が強くて、とてもキツかった。軍隊にはいっちゃった。かみくいっしきむら、北朝鮮みたいだった。きっと、洗脳されちゃうのが怖い、いやだという感覚質なのかもしれない。

奥之院の方にいくと優しい感じがする。灯篭とか、墓石とか増えてきて、人ってこんなに救われたいんだなーと思った。立てた人の思いが伝わってくる。救われたいという思いが高野山を永続させたいと思っている。それはここに眠っている人もそうだし、ここにお墓を立てた、残されている人もそう思っている。

このシステムで人が救われることについては、これはこれで、まあいいじゃんって感じ。でも、私がここに眠りたくない、個人的にはあんまり心地よくないなーって感じ。

 

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▼サロンメンバーOさんから見た高野山

空海の時代、思考、精神、身体は一体だった。近代になり、デカルト心身二元論を唱え、近代は精神、身体が分離した。そうして抽象的な数学の独立につながった。

奥山的には一体に戻ったほうが良い。身体と精神が一体のところ。現代人は、身体の声が聞こえなくなった。「大自然⇔身体⇔精神」こういったところを原稿にしようとしている。

脳みそにどうして、意識が立ち上がるのか。個に立ち上がる世界は脳みそだけではない、だと違う。 身体で感じる。イソギンチャクは脳みそがない。腸がその変わりをしている。イソギンチャクにだって世界が立ち上がっている。

 

 

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サロンでは継続的に空海に関する情報を集めていきます。語りたい方はぜひサロンにご参加くださいませー。

 

参加要項
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誰でも参加オッケーです。途中参加、途中抜けもOK

開催時間は毎週水曜日の11:30~15:00頃までです。

参加費は1000円(会の運営費に充てています)と昼食代 + 喫茶代の実費です。

神保町はおいしいランチのお店が多く、カレー、洋食、老舗の天ぷら、和食、個室で中華など豊富です。ほとんどが1000円以下で召し上がれます。レギュラーメンバーには神保町の出版者出身の人間が何人かいて、ランチのお店選びは任せてください。

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参加希望の方はこちらフェイスブックページからメッセージください。

 

集合意識とディバイド・アンド・ルール

集合意識とはフランスのデュルケームが主に使い出した概念らしい。自分自身が何によって動機付けられているのか、行動の規範は何なのか そんなことを考えているとこの集合意識という感覚質に行き当たる。

 

デュルケームは集合意識を「一つの社会または集団の成員たちの間に共有された諸信念、諸慣行の総体で、成員個々人の意識とは区別される固有の生命と体系をもったもの」と定義している。

 

普段は無意識に隠れていて、何かの行動の時に意識に上がって来るような感じだ。フロイト超自我とも似ている。


集合意識は個人の意識にしか実現されないが、個人の主義や主張とはことなる。自我を欠いている場合には、恐れの原因として集合意識が出てくる場合も多いだろう。

 

その集合意識を作る一つの歴史的な政策として「ディバイド・アンド・ルール」がある。

 

ディバイド・アンド・ルールは植民地支配によく使われる政策だ。地域や民族民族間を分断し力を集結させないようにする仕組みづくりだ。主に人の感情が利用される。

 

古代ローマは都市間に待遇の差をつけ連帯を禁じてある程度敵対するように仕掛けたり、19世紀のイギリスの植民地支配では、人種・宗教・地域で差をつけて敵対するように仕掛けている。日本では士農工商などがそれにあたる。

 

現在、日中韓はあまり良い感情を抱きあっていない。それはある種の集合意識を形成している。しかしそれは本当に自然に起きているのだろうか。戦後教育による影響はかなり大きいだろうと思える。自らの規範、従っている集合意識は何によって形成されているのか、よく自分の真相を探ってみる必要がある。

 

知らない間に、日本人の深層には西洋的な罪が埋め込まれている可能性もある。西洋諸国の戦争の歴史と帝国主義ということをもっと相対化していくべきだろう。その上で日本という国の政治を考えて行かないと集団的な自我を形成するのは難しいのではないだろうか。

 

こういった局面で哲学的な思考は役に立つ。

 

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(マックス・ギンズバーグ、フェイ・アートミュージアム)

「1+2+3+4+…=-1/12」

先日、数千億を運営している投資マネジャーと話す機会があった。色々と話ははずんで面白かったのだが、。最後に私から「好きな公式は何か」と尋ねたところ、好きな公式っていうのは思いつかないけど、最近気になっているのは「1+2+3+4+…=-1/12」という式です。と回答があった。少し調べたのでその所感を。

 

人の中の無限という感覚値には、実無限という無限個の自然数が存在するような「n+1の連続という感覚値」があります。今回の式に関しては、まずこの感覚値をもって、1+2+3+4+・・・・を理解するのとは根本的に違うと考えます。

 

結論から言うと、ラマヌジャン総和法が一番近似値だけれども、「ゼータ関数を解析接続した結果を用いて、1+2+3+4+…を-1/12と定義」という方が積み上げとしては理解しやすいということのようでした。

 

この式の左辺はゼータ関数の解析接続前の姿であり、右辺はゼータ関数の解析接続後の姿。解析接続の前後で中身は変わっているため、両辺は一致しないけれども、両辺にはとても密接な関係があるので、「等式」にしちゃった。ということのようです。

 

実際には、2乗して-1になる実数は存在しないけれども、複素数の中には「iを2乗したら-1になる」という考え方があります。これはそういう世界観でモノを見ると何か新しい発見があるよという感じです。

 

詳しくはこちらを参考に。

 

※なぜゼータ関数自然数の和は無限大に発散しないのか?
http://www.geocities.jp/x_seek/Euler.htm


世の中に構築されている社会システムは無限に処理することを想定していないものも多いので、最終的に落としどころをつけているものが多く存在しています。リミットに近づくとそういう処理をするということです。それは普段みない契約書などに書かれていることがあるかもしれません。形而上的には無限だけれども、社会の時間は有限ということと関連します。

 

投資の話につなげると、この違いがバイアスになって、実際の統計値は可能無限に基づかなければいけないのに、実無限のような無限が広がっていってコントロール可能で投資可能と判断する人がでてくるのではないかと思います。これだけに賭けても十分に稼げるんじゃないかと思っちゃいますね。けっきょく多くのクオリアを持つ人が現象に対するアプローチが上手なんだなと思います。

 

「数学の認知科学」や「虚数に情緒」という書籍や、脳のV1〜V12の野とも関連するところ。もうちょっと議論深めていきたい。

 

続きはサロンで。

 

文章:石塚


その他の参考サイト

※今日も8時間睡眠(「1+2+3+4+…=-1/12」をわかったつもりになる)
http://nakaken88.com/2014/12/08/080818#この式の罪深さについて

 

※1+2+3+4+… (ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/1+2+3+4+

 

※主婦と悪魔(無限足す1はどう考えても無限より1多いよね?)

http://sp.ch.nicovideo.jp/bookcomi/blomaga/ar674474

自分が本当にゴキゲンな状態とは何なのか

ある機械学習系のベンチャーの経営者と食事をした。その会社はグローバル人材を雇用して、マネジメントにインテグラル理論を応用しようとしていた。ウィルバーと言えば、「無境界」という悟りの感覚を西洋の概念を使って解説している本があるが、それを発展させた理論としてインテグラル理論が位置づけられていたので、すぐに興味を持った。しかし、書籍はすでに絶版になっていて、なぜか中古で1万円を超える値付けがされていたので、その経営者に本を借りて読んでみた。その読後感をまとめた。

 

インテグラル理論入門I ウィルバーの意識論

インテグラル理論入門I ウィルバーの意識論

 

 

ニーチェディオニソス的野蛮人 → アポロ的ギリシア人 → ディオニソスギリシア人 という流れで精神の成長を俯瞰している。その先は超人となる。ニーチェの超人に対しては、みんなが超人になっちゃったらだれが労働するの?という問いやツッコミはある。

 

インテグラル理論の応用は、そのツッコミへの対応とも考えることができる。超人的精神構造(レベル)になっても、意識状態(ステート)を行き来させたり、表現などの能力(ライン)を磨いたりして、社会とのつながり、もういっかいアポロと戯れるようなところの領域。一つの具体例として身体維持のための労働の部分をどうするのかとも言い換えることできそうだ。

 

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Integral Flow Experience with Bence Ganti (引用元)

 

 

 

人間は肉体と精神を持つ。肉体を維持するためには食べなくてはいけないし、精神を維持するためには情報と意味付け、ストーリーが必要だ。ストレスフリーでいるために、どうやって満たされている状態の時間を確保するのか。つい最近まで、いや現在も世界は帝国主義的に略奪することで欲望が満たされるという構造が続いている。いわいる欲望と戦争の歴史だ。

 

SNSなどの情報ツールの発展、経済がグローバル化することによる言語やサービスの混じり合い。そういうことが起きると、今までになかった視点を手に入れやすくなる。これは主に文化に関する感覚質(クオリア)と言えるだろう。

 

ギリシアのパブリックやポリス、平安京空海仏教ロココ時代の欲望の行きつく先、こういった構造には情報の非対称性があり、文化的な概念やクオリアの共有があまりなされていなかった。しかし、これらの非対称性は縮まってきた気がする。ここから取得できるのは聖なるものと、性なるものとも言える(笑)。

 

これは生活や活動を充実させるという意味において良い傾向と言えるが、一方で広がっているのはテクノロジーの仕組みに関する情報の非対称性だ。

 

たとえば、株式のトレーダーやビットコインで儲けている人に対して、なんか良くわからないけど怪しいとか、危ないとか、マジメじゃないとか、印象しか持っていない人がいる。しかし、彼らと話す機会があるが、ぜんぜん怪しくはない、金融工学や数学の知識はもちろん、売買するためのプログラムなどを自ら開発して実践している人もいる。ロジカルとエモーショナルを使い分けてリスクをとっている人もいる。印象だけになって、テクノロジーに対する情報を閉ざしてしまうと、結果的に搾取されていく時代になっているだろう。

 

本来、テクノロジーは格差を広げるためのものではなく、人間全体の労働を効率化するためにあると考えたい。よく機械学習ディープラーニングの統計的判断が人間の仕事を奪うという議論があるが、それは短期的な議論で、根本的な問題はテクノロジーへの技術的な理解と所有という概念と制度だ。

 

テクノロジーを基にして社会制度が作られしまうと、かなり強固な帝国になっていく。いまアメリカのテクノロジー企業を中心にこれが起こっているのではないか。テクノロジーは格差の間にある壁になっていく。テクノロジーは使い倒すもので、プログラミングや工学的な考え方を手に入れて、機械やシステムを奴隷してやるぞという個人が立つような感じにならないと、格差は進んでしまう。機械学習ブロックチェーンは最低限の教養として身につけておかないとマズそうだ。

 

ウェルバーは「現在は科学史観の真を絶対視する風潮が強い」と言っている。ある現象を語るとき、世界をみるとき、私の視点で語りすぎたり、科学的視点から語りすぎたりする。しかし、すべては多面的であり、バランスをとったほうが全体と個として最適になる可能性が高いのだ。どのようなバランス感覚が良いのか それは自分のインナーチャイルドと対話してみる必要がある。自分が本当にゴキゲンな状態とは何なのかを。

 

プラトンは、イデアは真善美の中にあると説いたらしい。カントは「純粋理性批判」において真を、「実践理性批判」において善を、「判断力批判」において美を探求している。ウェルバーは真善美をビッグスリーと呼んで、真を「それ 三人称 客観的な事実 科学」、善を「私たち 二人称 間主観的な合意 倫理」、美を「私 一人称 主観的な経験 芸術」として表現している。ウェルバーは社会とのかかわりを考えてか、真善美をさらに4つのQuadrant(象限)に分け「私(主観)、あなた(社会)、それ(客観)、それら(制度・文化)」としている。

 

 

個人的にはテクノロジーそのものがコンテンツになってしまい過ぎて、それが格差の壁になるようなことが起きてほしくない。コンテンツは美の中にもある。そのためには感覚を研ぎ澄ますために”私”を少しだけ強くしないといけないと思う。

 

上手にグローバル化するためには、西洋が持っている集団意識、超自我をどうやって相対化するのかがキーになりそうだが、自分の中の超自我や集合意識的なものに集中しても、西洋の規範に行きつく。これは戦後教育のたまものではないかと感じる。その規範を相対化するものっていうのは、なかなか見当たらない。

 

夏目漱石ポストコロニアルなものを一生懸命探して、イギリスにそのヒントがあると考えていた。最近では姜尚中が静かに動いている感じがする。西洋の思想を相対化できるようなものはいったいどこにあるのだろうか。誰かが概念、クオリア開発を行わなければいけないような気もする。奴隷のいない時代に、世界はどうやって循環するのだろう。

 

ウェルバーはテクノロジーのことはそんなに書いていないと思うが、教授になるなどのアカデミアの誘いを断り、皿洗いとしての収入で著作を書き続けたというエピソードがあり「自分の著作は、読書と思索と執筆と生活のありかたそのものとが一体となって初めて可能になる」といっている。ちょっと宮沢賢治吉本隆明入っているじゃんと思った。生活と活動から文化が生まれてコンテンツになり、美へと昇華する。しかし経済社会はそれをなかなか待ってくれない。

 

はたして、どんな解決方法があるのだろうか。神保町サロンでの思索は続く。

 

 

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(文脈はありませんが、ニューヨークで撮った写真w)

 

 

文章:石塚

意識の立ち上がりへ回帰してみる。

近代的自我は、他者との境界が明確で自由意志をもった責任を取れる主体。人が何かをするとは、意志をもって行動することである。よって人は自分の行動に対して、責任を取らなければいけないと言われる。しかし、そもそも意志があるってなんだろう。

 

精神症状などを考えてみると、アルコール依存症や薬物依存症は本人の意志ややる気でどうにもならない。正月の誓いなんて3日坊主の典型だし。こうなると、意志なんて、ほとんど当てにならない。

 

多くの人は、日常の些細な場面から人生の大きな節目にいたるまで、各人各様に、「する」と主体的だったり、「させられる」って受動的に行動していると思い込んでいるのではないかな。でも、「意志」や「責任」というものに大なり小なり懐疑をいだいたりすることもある。

 

 

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→『中動態の世界 意志と責任の考古学』


「普通」「正常」「当たり前」「常識」「社会人は」「男は」「女は」・・・これらの言葉の裏側には規範があり、秩序にあてはめようとする同調圧力がある。問題なのはそれと気づかず過剰に適応してしまうこと。無意識にそれが刷り込まれていくと、行動がコントロールされていることがある。でも、それに気づくのが「違和」なのだ。

 

→『「普通がいい」という病』


精神医学の世界では、正常異常の境界を判断がマニュアル化され異常者を量産し、薬漬けで正常を回復させようとする事が進んでいると聞いた。 DSMなどの精神医学では線引きするのではなく、スペクトラムで表現するのが流行だとか。

 

→『<正常>を救え 精神医学を混乱させるDSM-5への警告』


日常も日常から隔離される病も、問題の根っこは深いところで繋がっている。制度をすぐにどうこうするのは難しいので、当面の解決策は自分自身。瞑想などは、すすめていくと、インストールされていた言語がカッコにはいり、意識のコアは阿頼耶識の海に溶け出し、すべてと静かに繋がり、おおきななにかに包まれた感覚になる。言葉の囚われからものがれることができる。

 

瞑想をすると、身体の声が聞こえるようになるとか。身体というのは、媒体としての現象的身体のこと。

 


最近やってる神保町サロンでも同様のことを語っています。

 

近代化は、国民国家化、国内の産業革命=工業化、経済成長前提のシステム、そして文化的には西洋化すること。

 

そういう近代は終わってるはずなのに、近代の惰性がわれわれを縛っているようだ。医療も年金も成長前提。上場企業は成長を要求され、政治も成長の物語でしか政権を維持できない。

 

サロンに経済の専門家にきてもらったこともある。社会保障制度の財政(年金・医療・介護)はかなりやばいらしい。

 

国家が描く成長の物語から少し抜け出して、ニーチェの言う子供になってみてもいいかもしれない。ニーチェは、ラクダ:制度隷従者、獅子:自由に目覚めたもの、子供:道徳や規範からも自由な存在と言った。神保町サロンは、自由に目ざめ、子供になっていくための場所なのかなーと。

 

奥山

 

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8月25日 神保町サロン交流会の写真報告と、神保町サロンでやっていることのおさらい。

■8月25日、神保町サロンの交流会は25名(会場キャパ一杯)に参加いただきました。

参加者の方からは、もっと話者に質問をしたい。その話題について自分でも話題提供がある… という雰囲気が充満しておりました(笑)。多少、消化不良気味になったと感じています。次回は参加者同士の情報交換についても検討します。また、話したりない人は、水曜日のお昼の会にも来ていただきたいです。

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25日の話者とテーマ

「AIはどこまでできるのか」
遠藤 太一郎さん
CNNやRNN、そしてGANなどの事例についても詳しい最先端の人工知能エンジニア。NVIDIAカンファレンスの取材なども行っている。その射程はビジネスへの応用領域にも及ぶ。

 

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セクシャリティーの理解と現象学の関係性」
いりや(古怒田望人)さん
大阪大学人間科学研究科在籍。トランスジェンダー。哲学カフェふらてるを主催。特にレヴィナスを得意としている。

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 「マストドンで切り開く、新しい教育の姿」
山内学さん
株式会社THINKERS代表取締役。学校を超えて学びあえる10代のSNS『THINKERS』が、学研アクセラレーター2015に採択。過去に設立した2社をバリューコマースデジタルガレージグループに売却。

 

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■話者からの話題提供だけでなく、レギュラーメンバーが調理を担当したオードブル、お肉料理、炊き込みご飯も大好評でした! フォー。

夏の定番 トウモロコシ
メキシカンサラダ
ラタトゥイユ
砂肝のレモン仕立て
しらす×枝豆!夏のさっぱり炊き込みご飯
ビール、酎ハイ、ハイボール、日本酒など

 

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■会の冒頭で石塚の方から、神保町サロンが普段何をやっているのか説明をしましたが、言葉で表すのは難しいのですが、改めてトライしてみます。

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「本質」と「現象」、「超越論」と「超越論的」、「遠くから届く声」と「猫と量子」。これら3つの関係性はとてもよく似ている。

 

▼「本質」とはあるものが、ソレソノモノであるために最低限持たなければいけない性質のこと。それが何であるかという問いに対する答え。

対義語は「現象」。

「現象」とは、あるモノがカタチやクオリア(感覚質)を伴って現れること。

人間の知覚能力と大きく関係していて、知覚として表れるときには、すでに本質から離れている場合もある。

 

▼超越論と超越論的とは、エマニエル・カントが提唱した概念。

「超越論」とは人間の直観を超えた計り知れないもの。

「超越論的」とは計り知れない対象そのものではなく、その対象を認識する人間の認識の仕方のこと。

 

▼「遠くから届く声」と「猫と量子」は松岡正剛の千夜千冊全集の一巻と二巻のタイトル。

「遠くから届く声」の最初に取り上げられているのは、中勘助の「銀の匙」。「猫と量子」の最初に取り上げられているのは、中谷宇吉郎の「雪」だ。

 

松岡正剛は、ふたつのテキストに対してこう言っている。

 

銀の匙という作品は、まるで子供の心そのまま、子供の心に去来するぎりぎりに結晶化された言葉の綴れ織りなのである。しかしそれは大人がつかっている言葉のうちのぎりぎり子供がつかいたい言葉だけになっている、というふうなのだ。

 

夏目漱石は、この作品が子供の世界の描写として未曾有のものであることにすぐに気づいた。文章が格別にきれいで細かいこと、絶妙の彫琢があるにもかかわらず、不思議なほど真実を傷つけていないこと、文章に音楽的ともいうべき妙なる響きがあることなどを絶賛した。

 

和辻哲郎は、この作品にどんな先人の影響も見られないことに大いに驚き、それが大人が見た子供の世界でも、大人によって回想された子供の世界でもないことに驚いた。まるで子供が大人の言葉の最も子供的な部分をつかって描写した織物のようなのである。

 

※「銀の匙」 中勘助 (青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/001799/files/56638_61335.html

松岡正剛 千夜千冊
http://1000ya.isis.ne.jp/0031.html

 

中谷の雪という作品は、科学的な見方を徹してわかりやすく叙述している「言葉の態度」が美しいのに気がついた。

 

中谷は地上の雪にはいっさいふれないで、天から降ってくる途中の雪だけを凝視しつづけて本書を書いていたことに気がつかされる。

 

ぼくはシモーヌ・ヴェイユが『重力と恩寵』のなかで「メタクシュ」というきらきらとしたギリシア語を何度もつかっていたのを思い出した。メタクシュとは「中間だけにあるもの」という意味である。

 

中谷はその「いっとき」を追いつづけた人だったのだ。

 

※「雪」 中谷宇吉郎青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/001569/files/52468_49669.html

松岡正剛 千夜千冊
http://1000ya.isis.ne.jp/0001.html

 

 

銀の匙は、風景そのものが浮かび上がるようなテキストとしての要素が強い、一方で雪は、風景をどのように観察するのか、どのように情報としてプロトコル化するのかという要素の方に寄っている。

 

テキストは、風景心情のビジョンを映し出すものとして、情報をプトロコル化したものとして、少し複雑になった感情を吐露したり呼び戻すものとして、存在している。

 

上手な文章とは、これらの3つの要素が上品にブレンドされているようなものではないだろうか。

 

▼話の筋を戻す。神保町サロンは普段何をやっているのか。

「本質」と「現象」といった対応関係がどんなものであるのか。まず、そういったものを腹落ちさせる。3つの例以外にも、色々とキーワードはある。プラトンイデアと、アリストテレスの質量・形相だったり、仏教的の阿頼耶識と末那識だったり、フロイドやラカンの意識や無意識が理解の導入だったりもする。

 

これらは言葉でとらえるのはなかなか難しいので、隠喩を用いて腹落ちさせていく。

 

隠喩を使うためには、ある程度の身体性を用いたクオリア(感覚質)を持っていることがとても重要だ。

 

そこで、クオリアを獲得するためのフィールドワークをする。

 

サロンのイベントで料理をしたり、秋葉原で電気工作をしたり、高野山を訪れたり、広島の原爆ドームを見たり、美術館にいったり、絵をかいたり、異性装をしたり、コンサートにいったり、作曲したり、美味しい珈琲を飲んだりする。 自分に無いものを得ようとするための活動ならなんでもありだ。

 

そして、もう一歩進めて、本質や現象というものをどう表現するのか。少しづつ表現技術も磨いていけたら素晴らしいと思っている。

 

表現することで、自分のたどり着いた本質的なものを現象させることができる。アウトプットは活動する上でとても重要なことだ。そのアウトプットを客観的に見ることで、自分を愛すきっかけになったり、他人との違いを受け入れて再考するきっかけににもなる。

 

神保町サロンとは、だいたいそんなことをやっていると言える かな。。。

終戦記念日に感情から解放される

子どものころの記憶を散歩した。

泣いたらだめと言い聞かせ、寂しい気持ちを我慢してた。

子どもの僕はココロから目をそらして外を見てた。

視点を移して見えたのはなんだったろか。

植物や虫が見えた。色や光が見えた。

隠喩を覚えて、キモチを言葉でごまかした。

欲望は論理を使って本質を潤色する。

 

感情と風景が一緒になって、強いエネルギーになる。

妖怪やポルターガイストに見えたりする。

正直者には感じることができる。

優しさが共感の根源だと勘違してしまう時がある。 

感情だけで風景がついてこない。

感情と優しさだけあっても共倒れになる。

論理に見えるものが実は感情の吐露の場合がある。

欲望は論理を使って本質を潤色する。

 

音楽を使おう。言葉だけじゃ何もできない。

音楽を知っている視点で言葉を紡ごう。

クオリアを分類しよう。記号と表現のスパイラルだ。

論理は手順で、感情はスパイスだ。

最後に残るのはクオリアだ。

言い得て妙 と 隠喩に戻ったところで、

本質と上手に戯れることが人生を生きるコツとしよう。

 

文章:神保町サロン 石塚

 

 

※写真は目黒にある高野山真言宗の高福院の蓮。撮影は副住職の川島さん。

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