神保町サロン(物語から解放される時代を生きる)

神保町を中心に活動やアートを指向する集団です。

「博物ふぇすてぃばる!」で 土偶の新作を発表~ 20147/7/22 @九段下

7/22、23と九段下の科学技術館にて「博物ふぇすてぃばる!」が開催されました。

 

個性的な出品が多かった模様。togetterで当日の様子が分かります。

togetter.com

 

そんな中、神保町サロンのメンバー「真千子氏」が土偶を出品していました。

 

真千子氏によると、縄文時代は約1万3千年もの間、戦争もなく平和に人々がムラという単位で社会を作り狩猟や採集をしながら自然と調和するサスティナブルな生活を営んできたとても魅力的な時代とのこと。日本の縄文遺跡からは武器のようなものは発掘されず、大きな争いで亡くなったような痕跡も見つかっていないとか。そんな背景の中、楽しみながら活動が発展して、土偶や縄文土器の制作がされていたのかもしれません。

 

さて、真千子氏の新作土偶はガラスと石膏で作られ、顔がないのが特徴とのこと。当日の参加者は、顔がないことに気づかない人が多かったようです。現代人より縄文人の方が顔というアウトプットに敏感だったのかもしれません。

 

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■マチ子氏(alinomanimani代表、縄文ハンター兼アーティスト)

日本の狩猟・採集時代をテーマにジュエリー、金属作品やプロダクトを制作している。
2007年多摩美術大学卒業。2009年ヒコみずのジュエリーカレッジキャリアコース修了。美術教室講師、ジュエリー企画、販売を経て、2015年より自作のジュエリーを制作、展示、発表を始める。

 

近年はDNA解析や研究がかなり進歩しています。2016年には、国立遺伝学研究所集団遺伝研究部門および総合研究大学院大学遺伝学専攻の斎藤成也教授らのグループが、福島県北部にある三貫地貝塚から出土した縄文時代人(縄文人)の歯髄からDNAを抽出して、核ゲノムの一部を解読することに成功しています。

 

【プレスリリース】『縄文人の核ゲノム配列をはじめて決定 〜東ユーラシア人の中で最初に分岐したのは縄文人だった〜』

【プレスリリース】『縄文人の核ゲノム配列をはじめて決定 〜東ユーラシア人の中で最初に分岐したのは縄文人だった〜』



このような研究は人類観に変化をもたらします。このような研究が進めば、日本列島およびその周辺において、人々の移動や混血がどのように繰り返されてきたのか解明できるかもしれません。

 

縄文人ゲノム解読 私たちのルーツは」(時論公論 NHKの解説記事)

「縄文人ゲノム解読 私たちのルーツは」(時論公論) | 時論公論 | NHK 解説委員室 | 解説アーカイブス


 

創作とは、超越論的な構造を捉え、経験をアウトプットしていく行為なのだ。

神保町サロンでは創作活動をしている方が多く参加してくれます。

言語で創作活動や芸術活動を語ることは難しい。でも、神保町サロンの概要を伝えるために、しょうがなく… フォー

創作は何かと考えていくと、あるとき捉えられるクオリア(感覚値)を、それはどう認識されているのか(構造)を捉え、認識したものはなんだったのか(経験)をアウトプットしていく行為だと思う。

それは、時に新しい概念だったり、新しい組み合わせだったり、何かの再発見だったりする。

創作物と、鑑賞者が相互に作用し合って感動が起きることもある。

感動とは、深く感じて、心が動くことで、決して感情だけでなく、論理、精神、スピリチュアルなものの変動も含まれる。

それは気づきと言い換えることもできそうだ。

気づきには、今までにない体感や、脳内の再構築が伴う。


では、気づきをくれる創作やクオリアの根本的な指向性は何かと考えていくと、一番良い言葉は「真善美」ではないかと思う。

ここでカントの超越論と超越論的という概念を思いだしてみたい。

カントは超越的という概念を人間の経験を越えて認識できないものとして説明している。そして、超越論的とは、超越的な認識をいかにして可能と

するかという根拠や条件としている。

超越という感覚は昔からあって、ギリシアプラトンらが説いた「イデア」もそうだし、近代の神という概念もそうだ。現代人は拠り所として、お金や愛なども超越的なものとして志向しようとする。これは人間の思考のクセのようなものではないかと思う。

繰り返す。創作とは、超越的なものに対して、どう認識されているのか(構造)、認識したものはなんだったのか(経験)をアウトプットしていく行為だ。このアウトプットに再現性があり、鑑賞者に深い気づきを与えられれば、それは芸術になっていくのではないだろうか。

まず、真善美を捉えるセンサー、そして、再現する技術、この二つが組み合わさったときに、あっと驚くようなものができるのだ。

 

※6月28日の参加者は、うんちマン。 うんちマンは美大の大学院卒で、ゲームをたくさん作って人を幸せにしている天才なのだ。芸術のことを教えてくれた。

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生と認識―超越論的観念論の展開

生と認識―超越論的観念論の展開

 

 

ARの本当の凄さは、日常生活の情報処理そのものが変わることにある。

AR(Augmented Reality)といえば… 何をおもい浮かべるか…  ちょっと調べるとMicrosoftの「HoloLens」のイメージ映像なんかがでてくる。

 

www.microsoft.com

 

とってもビジュアルに凝っている。最初見ると驚くが、この映像はプレゼン用に作られている。ちょっと考えてみるととARの本質的なことって、見た目の凄さではないこと気づく。見た目にこだわるのはVR(Virtual Reality)で対応する方向性になっていくだろう。映画館がまずその役割を担うんじゃないだろうか。

ARのすごいところは、「視覚情報から得られた情報が、脳ではなく、インターネットを通じて膨大なデータベースと処理システムに接続されて、人間の行動に対してレコメンドを行う」というところにある。

日常生活において、目と脳だけで処理していたことが、リアルタイムの処理にコンピュータが入ってくるのだ。「ちょっと待って、いまスマホで調べるね」といって、スマホで調べてから行動することがあるが、この手間が無くなり、さらに処理が拡大されるとも言える。

 

ARが進化していけば、日常生活の情報処理そのものが変わる。

 

アーティストなんかは視覚から得られた情報を他の箇所と連携させて処理させることの訓練を受けているし、自覚的だったりするが、その感覚値がARによって拡張されるだろう。

これは、人生というか、生活、活動といった抽象度でのクオリア的な感覚を選択できるようになっていくと言える。フィクションの領域の強度を高められるという感じだ。同時に大事になるのは相対化だろう。

たとえばインターネットの検索エンジンの仕組みに鈍感だと、情報が狭められていると気づかないのと同様に、ARの場合も判断をやめてレコメンドシステムだけに頼ると、けっこう危なくなる。

それぞれの個人が選んだフィルターで世界を見るようになっていくし、しかもそのフィルターは他の人から確認できないであろうから、これまで以上に個々人の情報に対するリテラシーが大切になっていく。

 

V・S・ラマチャンドランらが著した「脳のなかの幽霊」という書籍がある。

取り上げられているトピックスは広範だ。幻肢、盲視、錯覚、サヴァンシンドロームてんかん、笑い、そしてクオリアなど。

強固なものとして存在している時間や空間、そして自己やリアリティなどは、実は作られたものであると気付かせてくれる。



石塚

XジェンダーのXってなんなのー??

日本ではある性の在り方を、X(エックス)ジェンダーと呼ぶことがある。女性とか男性とかのレイヤーではないメタな概念という感じだ。 

 

ジェンダーと名付けた背景には、プログラミングで使われる変数、つまり 何を入れても良い変数Xだよ という意味があったに違いない。

 

プログラミングにおいて代入は「assign」で、割り当てるという感覚。自分で割り当てているという当事者感がある。普段はセクシャルを意識していないが、ある文脈がきたときには、一瞬だけ明確になったり、ブレンドしたり、また靄になったり、意識しなくなったり。そういう感覚は、プログラミングの変数へのアサインに近い。

 

では、観察者的な視点からXを見た時どうなるかというと、未知・不定なる何かであって、ジェンダーに置き換えてみると、ジェンダークイア(queer)と呼んでしまう感覚になる。男性・女性などのアイデンティティを持つ人が、Xジェンダーを外部からみると、女性とか男性とかと同じレイヤーのアイデンティティを代わりに置きたくなる感じだ。

 

心理学にはアイデンティティを持たないといった意味でモラトリアムという概念があけれども、変数やモラトリアムという感覚、さらには現象学的なエポケー(モノゴトをいったんカッコに入れておく)を理解しているとXジェンダーという感覚を掴みやすくなるんじゃないだろうか。

 

ジェンダーの研究者 Dr.ソンヤ・ペイフェン・デール氏はXジェンダーという概念・言葉について、こう指摘している。

 

「2013年にウィキペディアにXジェンダーが掲載されることで、定義が固定化されてきてしまった。それ以前にXジェンダーを自らのセクシャルを説明する概念として使っていた人たちが、もう使わなくなってきた」

 

Dr.ソンヤ・ペイフェン・デール氏

https://www.youtube.com/watch?v=BTG3kML7Cxs

http://intersections.anu.edu.au/issue31/dale.htm

 

言葉や概念は広まるにつれて内容が固定化する。言葉が素材として情報交換に使われるため固定化するというのは一つの言葉の良いところだが、せっかくXと言っているのだから、XはXのままでいいのだ。

 

2017/6/14の神保町サロンには大阪大学大学院(人間科学研究科現代思想)で哲学を研究しているイリヤさんがゲストで来てくれました。

 

「il y a」とははフランス語で「存在する」という意味。イリヤさんはレヴィナスフッサールを使ってジェンダーを研究しています。

 

イリヤさんはXジェンダーについてこう語る

xジェンダーに関していえば、そもそもジェンダー」という概念を否定するような存在なので、「ジェンダーX」=「ジェンダーとはそもそも記号化できない」という名称の方が良いのかなと最近は感じています(「Xジェンダー」だと、ひとつのジェンダーとして実体化されてしまうおそれがありますし、事実、そういう流れが出てきているので)。

 

 

神保町サロンの様子(2017/6/14)

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性ってどのように捉えるとわかりやすくなるだろうか。ちょっと簡略化しすぎではあるけれども、何もトッカカリが無く理解が難しい場合には、「生物学的な性別」、「ココロの性別」「恋愛対象/性的指向」の軸に分けて考えれば日常生活では十分ではないだろうか。(せっかくXジェンダーとしているのに、議論を戻すようで、なんとも言えない気持ちにもなるけど…)

 

「生物学的な性別」

男性/女性/両性

 

「ココロの性別」

男性/女性/X

 

「恋愛対象/性的指向

男性/女性/バイセクシャルパンセクシャル(両性・全性を愛せる)

  

たとえば、身体は男性だけど、ココロがXだったり、女性だったりして、恋愛対象がパンセクシャル(全性を愛せる)ということがある。外側からみるとノーマルに男性が女性を好きと思われるかもしれない。

 

だけれども、身体が男性っで、ココロが男性で、恋愛対象が女性の方とは、ふるまい方や、恋愛の仕方など、かなり違いがでてくる。

 

イリヤさんがサロンの雑談の中で、「ヘブライ語にはbe動詞にあたる言葉はない。レヴィナスがbe動詞を避けて『存在の彼方へ』を書いた理由はそこにある。男性や女性になっているのではなくて、なるのである」と言っていたのがとっても印象的でした。

 

また、イリヤさんはこの区分に対して、アドバイスをくれた。 

「ココロの性別」と「身体の性別」という区分についてなのですが、たしかに性同一性障害の基準でも「心の性と体の性が一致しない状態」と定義されており妥当な区分です。しかし、この区分にはいわゆるデカルト的な心身二元論の焼き直しではないかという疑義があります。「そもそも心に性はあるのか(中村美亜さん)」という著作があるように、いわゆる「ジェンダー」を心に帰属させることができるのかもっと根源的な問いがあるのです。そのために僕はトランスジェンダーを「ジェンダー」からではなくあくまでも「違和」から論じることにしています。

 

 

LGBTという性の多様性はブームになっているけれど、結局は個々人のアイデンティティの確立問題や、説明のめんどくささ、数の空気に押し込まれるなどの課題をどう解決するかということが大切。

 

エポケーのような哲学的な認識の方法論を持っていると、すんなりとXジェンダーと言われても、そうなんだー と納得できるはず。様々な人の認識法に対して憑依できれば、コミュニケーションは円滑に進むはず。

 

男性、女性という言葉が、身体のことだけでなく、ココロの指向性までも規定するような強い拘束力を持っていることに気づいて、それをひっぺがしてみる。

 

神保町サロンや、いりやさんが主催する哲学カフェでは、違和を感じた人が、気軽に好きに発言できるような環境があります。違和を普通に話せるのって、楽になるし、活動的になるし、遊びが始まるって感じです。

 

石塚

resound (曲を作ってみました)

シェーンベルクの12音技法を使いながら曲を作ってみました。作曲自体はスマホの無料アプリなどで音を鳴らしながら、記録は楽譜に手書きで記入していって、譜面に起こすのはフリーソフト

大衆文藝ムジカ04号にも掲載されました。

丘のうえ工房ムジカ

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音の再生はこちら(MIDI音源です)

 

作曲の依頼受け付けています(笑)

 

作曲技法を知ると、音楽鑑賞の深みが増します。モティーフが何で、どんな展開をしたのか。ロジカルな解釈と、感性の解釈がミックスしたところに音楽鑑賞の深みがあると思います。サロンでは音楽鑑賞会の開催も予定。興味ある方はメッセージください。

 

石塚

 

「労働」と「仕事」はぜんぜん違う、そしてその前に「活動」って概念を取り戻せ!

大人になると遊ぶのが悪いような、いつもマジメでいないと申し訳ないような、そんな雰囲気に飲み込まれてしまう。でも、なんかそんな雰囲気って腑に落ちない。誰かが良いこと言ってないかなーと神保町の書店を散策していると「遊びと人間 (講談社学術文庫)」という本に出会った。しかも、講談社学術文庫という学術系のレーベルから出版されている… これはもしやイケてる本なのでは!

 

さっそく購入して、まず著者のロジェ・カイヨワについて検索… 1913年にフランスのランスで生まれ、子供のころにパリへ、いわいるエリート教育を受けている。

 

ジョルジュ・バタイユが発起人となった社会学研究会(College of Sociology)などに参加して活動を行っていた。シュルレアリスムに対して、個人の無意識という想像の生(シュルレアリズム)ではなく儀式や共同性の力(社会学っぽい)というものに焦点を当てて活動していたらしい。

 

1939年にフランスを離れて、第二次世界大戦を回避。アルゼンチンで反ナチの執筆者・編集者として活動、戦後はユネスコで働き、多くの著作は1956年の「夢の現象学」以降に書かれている。1978年に没するまで世界を旅してまわったらしい。カイヨワ本人が40歳以降をほとんど遊びという活動に費やしているんだなーという感じがする。


「遊びと人間」で、カイヨワは遊びを4つに分類して、

1、アゴン(競争) とっくみあい(遊戯)、スポーツ(競技)
2、アレア(運) じゃんけん(遊戯)、宝くじ(競技)
3、ミミクリ(模擬) ごっこ遊び(遊戯)、演劇(競技)
4、イリンクス(眩暈) 子どもがぐるぐる回る(遊戯)、登山(競技)

そしてそれぞれに、遊戯(パイディア)レベルのものと、ルールがあるような競技(ルドゥス)レベルのレイヤーがグラデーションしていると言っていた。

 

遊びの獲得を心理学的にみてみると、乳児期には眩暈を覚え、幼児期には模擬を、児童期になると競争、運を試し、思春期・青年期以降になるとスポーツ活動、文化活動を趣味として楽しむことで、遊びを獲得していくなーと。とっても腹落ちする分け方だった。

 

現在はスマホゲームなどの開発にゲーミフィケーションという概念が使われているが、カイヨワの分類もかなり影響を与えているだろう。でも、ゲーム開発者とユーザという区分けを作ってしまうんじゃなくって、全ての人が遊びに自覚的になることで、人生を謳歌できる人が増えるんじゃないかと思える。

 

音楽で色々な遊びを試した人と言うとエリック・サティ(1866年-1925年)が思い浮かぶ。ちょっと時代は違うけれども、同じフランス。けっこうな影響があったんじゃないかと思った。

 

遊びを獲得できる子供は家庭に所属してある程度の安全や食事が保障されている。遊びは、なぜできるのかは身体性の維持が担保されていることが大きい。これは大人になっても同じだ。

 

そこで思い出したのが、ハンナ・アーレントの「労働」「仕事」「活動」という概念。ハンナ・アーレントは「人間の条件 (ちくま学芸文庫)」という本の中で、人間のエネルギーの使い方を「労働」「仕事」「活動」の3つにわけている。(アーレントはこのエネルギーをヴィタ・アクティーヴァと呼んでいる。)

 

労働は身体を維持するのに、どうしても必要なこと。ここは大いに合理化すべきだと思う。活動は遊びと解釈できそうだ。人間はこの遊びという活動の時間が増えたら人生楽しくなると思う。


そして仕事。日本人はもともと仕事がアートだったから分かりにくいのだが、仕事は労働と違って、活動から生まれた法則や期間限定の秩序を修練していく作業としてとらえて、アートと解釈するとしっくりくる。


アーレントの定義)
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労働laborとは、人間の肉体の生物学的過程に対応する活動力である。人間の肉体が自然に成長し、新陳代謝を行ない、そして最後には朽ちてしまうこの過程は、労働によって生命過程の中で生みだされ消費される生活の必要物に拘束されている。そこで、労働の人間的条件は生命それ自体である。
仕事workとは、人間存在の非自然性に対応する活動力である。人間存在は、種の永遠に続く生命循環に盲目的に付き従うところにはないし、人間が死すべき存在だという事実は、種の生命循環が、永遠だということによって慰められるものでもない。仕事は、すべての自然環境と際立って異なる物の「人工的」世界を作り出す。その物の世界の境界線の内部で、それぞれ個々の生命は安住の地を見いだすのであるが、他方、この世界そのものはそれら個々の生命を超えて永続するようにできている。そこで、仕事の人間的条件は世界性である。
活動actionとは、物あるいは事柄の介入なしに直接人と人との間で行なわれる唯一の活動力であり、多数性という人間の条件、すなわち、地球上に生き世界に住むのが一人の人間manではなく、多数の人間menであるという事実に対応している。たしかに人間の条件のすべての側面が多少とも政治に係わってはいる。しかしこの多数性こそ、全政治生活の条件であり、その必要条件であるばかりか、最大の条件である。
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青年になると「自分とは何か」「自分には何ができるのか」「他人との区別はなにか」といった問いを持つ。ここで、行われるのが自己同一性(アイデンティティ)教育だったりする。大人になってから、たまに自己啓発にハマったりするのも、この自己同一性がほしかったりするためだ。

 

やっかいなのが、労働と自己同一性を一致させてしまう場合だ。労働と活動とアート(仕事)を分けたけれども、何のために労働するのかを再確認すると、それは身体の維持のためだ。労働はアイデンティティではない。その作業がアートの領域まで高められてお金をもらえているのであれば、なんも問題ないのだけど、労働のままアイデンティティをタグづけいていくと、かなーり不幸なことが起きる。

WHOは痛みを4つあると定義している。

1、身体的  身体の痛み
2、心理的 不安、恐れ、苛立ち、孤独など
3、社会的 仕事や家庭や地域の問題
4、スピリチュアル 人生の意味、罪の意識、死の恐怖

4つの痛みは絡み合って人の意識に情動体験として現れる。労働とアイデンティティをくっつけてしまった場合は、社会的な痛みが起きて、他の痛みも誘発する。

 

最低限の労働はしょうがない。それは身体を維持するため。でも本来は活動の時間を長くして、できたらアートの領域までいっちゃたりすると、いいよねという話。

 

活動という概念が分かりにくいから、カイヨワの4つの遊びに自覚的になって、遊びをクリエイトしていく立場に立つ。そうると、活動の本質が見えて、労働とアートの区別もついてくると思う。

 

石塚

神保町サロンの概要 (毎週水曜日 ランチ&カフェ 11:30~14:30頃まで開催 出入り自由)

神保町サロンは毎週水曜日に神保町で哲学・政治・経済、生き方などについて語る会をやっております。

参加者に共通している認識としては、帝国主義、近代科学史観、資本主義を前提とした「搾取・拡大・成長」の限界です。


議論の出発点にちょうど良いのは広井良典著の「 ポスト資本主義――科学・人間・社会の未来 (岩波新書)」です。

 

 

簡単にまとめます。
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近代科学と資本主義という二者は、限りない「拡大・成長」の追求という点において共通していて、両輪の関係にある。しかし、地球資源の有限性や人間社会の格差拡大といった問題点がある限り、その方向性には限界がある。

では、成長・拡大から成熟した社会・定常化する経済への移行期には人々はどうあるべきなのか。

どうすれば幸福を維持できるのか。そもそも幸福とは何か。 資本主義が変化すればよいのか、社会主義を形を変えて復活させればよいのか、エコロジーとは何か 欺瞞はないのか。

あらしい価値観が創出されるとしたら、どういったところから創発が起きるのか。
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レギュラーで参加しているメンバー、今まで参加された方たちは下記のような考え方を持っています。


実体経済と金融経済の乖離を見ればデフォルト経済がおこるだろう。経済だけを頼りに生きていたのでは、仕事や家族を維持できず孤独に陥ることもあるだろう。新しい繋がり、友人が社会保障になる時期が来るんじゃないか。また、デフォルト経済は人間の本来の姿をあらわにするため、新しい価値を生み出され、経済格差を埋めるチャンスでもある。

 

▼いままでは人の不完全性を宗教や思想、哲学などのイデオロギーが曖昧に引き受けてきた。しかし、これからは人工知能学や行動経済学など、バイアスを排除する科学がそれらを引き受けるフラットな時代になっていくだろうと思う。

 

▼テクノロジーとデータの活用によってまずはシェアリングエコノミーが進むと思う。経済だけに頼るのはリスクが大きいが、経済は人間の身体を維持するためのインフラや食料などを含む交換に大きな役割を果たしている。大きな経済圏ばかりが注目されていた時代は終わり、個人が中規模や小規模の経済圏にいくつも所属する時代になるのではないか


▼自由意志や人権は社会システムを維持するための一つの抽象概念でフィクションである。せっかくフィクションなのであれば、フィクションを作り上げるベースになるところをもっと掘り下げて本質的な物語を作ってみたらどうだろうか。国民国家を維持するために作られたような人工的な概念からは一回距離を置くことで、自分を束縛していた言語から解放され、身体と精神をしっかりと分離できるようになる。ここで、ハンナアーレントの「労働、活動、仕事」を思い出してみたい。これらを僕なりに現代的に解釈すると、「労働=身体維持のために必要な経済活動 活動=人生を遊ぶということ 仕事=活動から得た法則や楽しみを拡大修練していって、アートにしていく」とできないだろうかと提案したい。政治や経済は手段であると割り切ると生物としての楽しさを教授するためには脳梁的、つまり色彩、匂い、音などのアート的な感覚が磨かれずに残っていることに気づく。読み書きそろばん能力が人間っぽさというイメージを築いた時期があったかもしれないが、これらはシステムエンジニアリングの発達によって機械に任せる時代が来る。もちろんシステムエンジニアリングの中にも遊びもアートもあるだろう。脳梁的なことを言葉(フィクション)にするならば空観・中観・仮観、唯識阿頼耶識などの仏教的な概念、フロイトの意識、下意識、無意識、エス、自我、超自我などが当てはまる。フィクションとバイオロジカルの間を行き来する能力、これらを磨いていくサロンが必要なのではないだろうかと思う。


参加要項
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誰でも参加オッケーです。

開催時間は毎週水曜日の11:30~14:30頃までです。

参加費は1000円(会の運営費に充てています)と昼食代 + 喫茶代の実費です。

神保町はおいしいランチのお店が多く、カレー、洋食、老舗の天ぷら、和食、個室で中華など豊富です。ほとんどが1000円以下で召し上がれます。レギュラーメンバーには神保町の出版者出身の人間が何人かいて、ランチのお店選びは任せてください。

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参加希望の方はこちらのフェイスブックページからメッセージください。

 

担当:石塚