神保町サロン(物語から解放される時代を生きる)

神保町を中心に活動やアートを指向する集団です。

1200年続く高野山には、永続的なビジネスシステムが動いていた。

関心のきっかけは、神保町サロンに来たゲストが「高野山の宗教都市は空海が作ったシステムで、まだそのシステムは生きている」、「空海は、結界を張って流れを創った」と立て続けに高野山空海関連の話をしていったからだった。

 

そこで、実際に高野山を訪れて、私のビジネスの領域とも重ね合わせ「高野山を舞台に空海が作った壮大なビジネスモデル」という視点で見てみたいということに関心が向いた。

 

高野山には、10万とも20万とも言われる墓や慰霊塔、供養塔が並んでいる。戦死者の供養塔は、戦地や戦隊などに分かれあちらこちらにあるし、生きた時代には争い合った戦国武将らの墓も、今は静かに向かい合っている。しかし、いまだ誰のものかわからない墓が多数あるという。戒名から実名を割り出す気の遠くなる調査が続いているそうだ。

 

 

 

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高野山の二大聖地のひとつである壇上伽藍の周辺を歩いている時、壇上伽藍の大塔で立体曼荼羅に入った時、霊宝館で金剛界曼荼羅胎蔵界曼荼羅に囲まれた時、息苦しさや内臓の鈍い重量感を感じた。二日酔いに似たような、他で感じたことはない感覚があった。

 

数多くの五輪塔などを見て、人はこんなにも救われたいのかと思う反面、ここで救われるなら、安らかになれるかもしれないとも思った。

その場の空気は静かで重く、ときに息苦しさを感じるほどの囲まれ感と秩序感でもあった。早くここから脱け出したいとも思った。

 

静かに重い秩序感・囲まれ感、それは強い権力的なもの、外圧的なものではなかった。透明感のある、破れそうで破れない薄膜のような。外からの力だけでなく、人が内面から求めてできあがった秩序。それをつくったのは空海だが、救われたいという心、即身成仏を求める多くの心がそのシステムを維持してきたのだろう。

 

自分の両親は、いろいろ事情があり、入る墓がないという。散骨してと笑っていたけれど、昭和ど真ん中世代の価値観を考えると本気とは思えない。これだけの心が集まり、多くの人が常に参拝する、こんな地ならさびしくないし、毎日祈ってもらえるし。ここに眠りたい、眠ってほしいという気持ちは、それは至極自然なものかな、そのためにお金使うのもわかるよね、だってお金はあの世にもっていけないし、なんて俗っぽいことも考えながら、もう一つの聖地である奥の院へ参道を歩いた。

 

壇上伽藍のあたりを抜けて、奥の院への参道付近では息苦しさが無くなった。空気の質感が違って感じられたのだ。とても面白い体験となった。

 

ところで、高野山は宗教都市であり観光地でもある。

 

しかも、一朝一夕でできあがった観光地ではない。1200年の歴史がある地だ。この現実に、実はやや驚きがあった。

 

戦国時代、宿坊は、高野山の寺院にとって、生き延びる術になっていた。寺院を守ってもらう代わりに武家と檀縁を結び、経済的な援助も受けていたという。戦国武将の墓所が多いのは、この時代からの縁に由来する。江戸時代には、参拝客に宿泊を提供していた。

 

インバウンドが盛んな今は、宗教都市としてミシュランなどに掲載されているらしく、欧米からの外国人観光客が多い。宿坊を営む僧侶は外国人観光客相手に英語で対応をしている。夜には、観光客受けを意識した奥の院ナイトツアーなども開催されている。また、WIFIを完備し天然温泉をひく寺院もあった。宿坊と観光が、高野山と寺院の経営を支える重要な事業であることは、時代背景が変わっても同じようだ。

 

1200年続く高野山、そこには、ビジネスシステムとしての永続性が考えられ、組み込まれ、継承されているのだと思う。ビジョン、目的、経営資源、人材、共感されるSTORY…。

 

空海の作り出した仕組み、このあたりをもっと掘り下げて調べようと思った。興味は尽きない。


高橋

 

 

 

生きるセンスを描いた映画「この世界の片隅に」


神保町サロンにて「この世界の片隅に」が話題になっている。今後のネタにもなるので少しブログに書いておく。

 

この映画を一言で例えるなら「生きるセンス」を描いた映画と言えるのではないだろうか。

 

全体を通してカット数は多いと感じた。特に前半は記憶処理のようにシーンがパッパ切り替わる。絵そのものの情報量は多く、写真でいうとパンフォーカスというか、絞りがなく、画面全体に様々な情報が散りばめられている。

 

このような情報の多い描写の中で、すずは自然や社会状況や構造からくる情報をそのまま受け取っているように描かれる。それは自分のストーリーを生きるための意味づけの情報処理ではなく、常にパラレルワールドを意識したような情報処理をしているとも言える。

 

映画の中にでてくるすずの絵は写実的なものが多い。世界を記述しようという活動、遊びだ。レシピなどもメモしていたり、軍艦を書いて憲兵に目をつけられるあたりは、すずの情報量の多さが分かる描写だろう。

 

映画の中で繰り返しでてくるテキストに「爆弾落ちたら魚が浮く」というものがある。これは普段は質素に配給で暮らしているが、爆撃があると魚が巻き込まれて死んで海に浮いてくるので、食料が増えて嬉しいというものだ。これは戦争は最初は国同士の戦いから始まるが、そのうちに戦争そのものと市民の生活との戦いになることを上手く言い表している。生活視点の民話のような構造だ。すずの書く絵もすべて生活という視点に還元されていることは生活者の強さが現れていると言えるだろう。

 

映画の終盤で、すずは空爆を受け一緒にいた義理の姉の子を守りきれず亡くしてしまい、すず自身も右腕を無くす。さすがのすずも喪失感にかられるが、子供のころからの知り合いで、遊郭に売られたリンから「人間何かが足りないことはあっても、居場所はそうそう無くなりゃせん」と言われ徐々に活力を取り戻していく。ここはアニメよりも漫画の方がより描写が細いようだ。

 

最後では、いままですずの視点で描かれていた映画に初めて他者視点が入る。広島の原爆で母を失った子供の視点だ。その子は生きる力そのもので生きようとしている。パラレルワールドを自然にやってのけるすずはこの子の視点をすぐに受け入れて一緒に生活を始める。すずの生きるセンスを強く感じさせる描写だ。

 

人は何かを失う。しかし逆に何も持っていないということは、何かを受け入れやすい状況にあるともいえる。所有の強度とは何なのかについて考えさせられる。

 

 

空海の情報空間と、システム的思考方法。


最近、真言宗の宗祖・弘法大師空海さんが神保町サロンで話題になっている。メンバーの数人が高野山にいき、その空気感を伝えてくれたのでメモとして残しておこうと思った。

 

空海が伝えたのは「密教」だが、仏教をさかのぼっていくと、古代インド思想にたどり着く。古代インド思想は、紀元前1500年くらいのものが、西洋の文献に記されているようだ。原始仏教や根本仏教、primitive Buddhismと呼ばれている。

 

このころは、自然や集合意識的なものを「梵(ブラフマン)」と呼び、個人の自我的なものを「我(アートマン)」と呼んだ。そして、これらを統合するために、「梵我一如(ぼんがいちにょ)」という境地にたどり着こうとしていた。

 

密教はこういったところにルーツを持つが、これらと違い一番特徴的なところは、「即身成仏」だろう。空海密教以外を「顕教(けんきょう)」と言ってちょっと批判的に捉え、多くの顕教は、悟る、成仏するためには、何代にも渡って生まれ死に変わりながら、修行が必要だと説くが、密教では修行によって現世で肉体を持ちながら成仏することができると説いた。

 

「即身成仏」とは、生まれとか関係なく修行すればみんなも心地よい境地に行けちゃうよということだ。

 

それが見事に表されているが、空海が24歳の時に書いた「三教指帰(さんごうしいき)」だ。当時は、「聾瞽指帰(ろうこしいき)」とも呼ばれていた。

 

8500字数に及ぶ漢文で、「文選」「芸文類聚」「初学記」を辞書代わりに、「史記」「漢書」「三国志」「世説新語」「顔氏家訓」、儒教論では「四書五経」、道教論では「老荘」「准南子」「抱朴子」、仏教論では「法華経」「金光明最勝王経」などから情報を得て編集しているという。

 

松岡正剛はこの空海の作業のことを、「日本最初の総合編集思想の試み」と言っている。そりゃそうだわなー。空海のもっていた情報空間っていったいどんなのだろう探りながら近づくととても楽しい。空海は遊び系の人かと思っていると、けっこう秩序系でもあったりする。マンダラを見ているとそう思えてくる。システム的な循環を成立させるために無理をしてくることもありそうなのだ。

 


空海の著作ペディア(三教指帰
http://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-writing/post-105.html

 

▼サロンメンバーTさんから見た高野山

1200年以上、この町のシステムが続くのは理由は何か。宿坊は外観、お勤めが無いと、ただの民宿。しかし、歴史を調べると、昔から宿坊をやっている。

生きているうちに救われたい、意識の弱さ、という人間の弱さに対して上手に入っていっている。真言宗では即身成仏という概念を使って、理論的に上手に積み上げている。

空海平安時代の政治の仕組みに入り、高野山を一つのメディアとして使い、参拝や座禅によって身体性を支配して、マンダラなどを使って精神に入っていく。マンダラはGUI。さらにシステムが継続するように、教育を押さえている。小さい町の中に保育園から大学院まである。

真ん中から壇上伽藍のあたりは、結界というか、洗脳されてしまうというような感覚が強くて、とてもキツかった。軍隊にはいっちゃった。かみくいっしきむら、北朝鮮みたいだった。きっと、洗脳されちゃうのが怖い、いやだという感覚質なのかもしれない。

奥之院の方にいくと優しい感じがする。灯篭とか、墓石とか増えてきて、人ってこんなに救われたいんだなーと思った。立てた人の思いが伝わってくる。救われたいという思いが高野山を永続させたいと思っている。それはここに眠っている人もそうだし、ここにお墓を立てた、残されている人もそう思っている。

このシステムで人が救われることについては、これはこれで、まあいいじゃんって感じ。でも、私がここに眠りたくない、個人的にはあんまり心地よくないなーって感じ。

 

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▼サロンメンバーOさんから見た高野山

空海の時代、思考、精神、身体は一体だった。近代になり、デカルト心身二元論を唱え、近代は精神、身体が分離した。そうして抽象的な数学の独立につながった。

奥山的には一体に戻ったほうが良い。身体と精神が一体のところ。現代人は、身体の声が聞こえなくなった。「大自然⇔身体⇔精神」こういったところを原稿にしようとしている。

脳みそにどうして、意識が立ち上がるのか。個に立ち上がる世界は脳みそだけではない、だと違う。 身体で感じる。イソギンチャクは脳みそがない。腸がその変わりをしている。イソギンチャクにだって世界が立ち上がっている。

 

 

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サロンでは継続的に空海に関する情報を集めていきます。語りたい方はぜひサロンにご参加くださいませー。

 

参加要項
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誰でも参加オッケーです。途中参加、途中抜けもOK

開催時間は毎週水曜日の11:30~15:00頃までです。

参加費は1000円(会の運営費に充てています)と昼食代 + 喫茶代の実費です。

神保町はおいしいランチのお店が多く、カレー、洋食、老舗の天ぷら、和食、個室で中華など豊富です。ほとんどが1000円以下で召し上がれます。レギュラーメンバーには神保町の出版者出身の人間が何人かいて、ランチのお店選びは任せてください。

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参加希望の方はこちらフェイスブックページからメッセージください。

 

集合意識とディバイド・アンド・ルール

集合意識とはフランスのデュルケームが主に使い出した概念らしい。自分自身が何によって動機付けられているのか、行動の規範は何なのか そんなことを考えているとこの集合意識という感覚質に行き当たる。

 

デュルケームは集合意識を「一つの社会または集団の成員たちの間に共有された諸信念、諸慣行の総体で、成員個々人の意識とは区別される固有の生命と体系をもったもの」と定義している。

 

普段は無意識に隠れていて、何かの行動の時に意識に上がって来るような感じだ。フロイト超自我とも似ている。


集合意識は個人の意識にしか実現されないが、個人の主義や主張とはことなる。自我を欠いている場合には、恐れの原因として集合意識が出てくる場合も多いだろう。

 

その集合意識を作る一つの歴史的な政策として「ディバイド・アンド・ルール」がある。

 

ディバイド・アンド・ルールは植民地支配によく使われる政策だ。地域や民族民族間を分断し力を集結させないようにする仕組みづくりだ。主に人の感情が利用される。

 

古代ローマは都市間に待遇の差をつけ連帯を禁じてある程度敵対するように仕掛けたり、19世紀のイギリスの植民地支配では、人種・宗教・地域で差をつけて敵対するように仕掛けている。日本では士農工商などがそれにあたる。

 

現在、日中韓はあまり良い感情を抱きあっていない。それはある種の集合意識を形成している。しかしそれは本当に自然に起きているのだろうか。戦後教育による影響はかなり大きいだろうと思える。自らの規範、従っている集合意識は何によって形成されているのか、よく自分の真相を探ってみる必要がある。

 

知らない間に、日本人の深層には西洋的な罪が埋め込まれている可能性もある。西洋諸国の戦争の歴史と帝国主義ということをもっと相対化していくべきだろう。その上で日本という国の政治を考えて行かないと集団的な自我を形成するのは難しいのではないだろうか。

 

こういった局面で哲学的な思考は役に立つ。

 

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(マックス・ギンズバーグ、フェイ・アートミュージアム)

「1+2+3+4+…=-1/12」

先日、数千億を運営している投資マネジャーと話す機会があった。色々と話ははずんで面白かったのだが、。最後に私から「好きな公式は何か」と尋ねたところ、好きな公式っていうのは思いつかないけど、最近気になっているのは「1+2+3+4+…=-1/12」という式です。と回答があった。少し調べたのでその所感を。

 

人の中の無限という感覚値には、実無限という無限個の自然数が存在するような「n+1の連続という感覚値」があります。今回の式に関しては、まずこの感覚値をもって、1+2+3+4+・・・・を理解するのとは根本的に違うと考えます。

 

結論から言うと、ラマヌジャン総和法が一番近似値だけれども、「ゼータ関数を解析接続した結果を用いて、1+2+3+4+…を-1/12と定義」という方が積み上げとしては理解しやすいということのようでした。

 

この式の左辺はゼータ関数の解析接続前の姿であり、右辺はゼータ関数の解析接続後の姿。解析接続の前後で中身は変わっているため、両辺は一致しないけれども、両辺にはとても密接な関係があるので、「等式」にしちゃった。ということのようです。

 

実際には、2乗して-1になる実数は存在しないけれども、複素数の中には「iを2乗したら-1になる」という考え方があります。これはそういう世界観でモノを見ると何か新しい発見があるよという感じです。

 

詳しくはこちらを参考に。

 

※なぜゼータ関数自然数の和は無限大に発散しないのか?
http://www.geocities.jp/x_seek/Euler.htm


世の中に構築されている社会システムは無限に処理することを想定していないものも多いので、最終的に落としどころをつけているものが多く存在しています。リミットに近づくとそういう処理をするということです。それは普段みない契約書などに書かれていることがあるかもしれません。形而上的には無限だけれども、社会の時間は有限ということと関連します。

 

投資の話につなげると、この違いがバイアスになって、実際の統計値は可能無限に基づかなければいけないのに、実無限のような無限が広がっていってコントロール可能で投資可能と判断する人がでてくるのではないかと思います。これだけに賭けても十分に稼げるんじゃないかと思っちゃいますね。けっきょく多くのクオリアを持つ人が現象に対するアプローチが上手なんだなと思います。

 

「数学の認知科学」や「虚数に情緒」という書籍や、脳のV1〜V12の野とも関連するところ。もうちょっと議論深めていきたい。

 

続きはサロンで。

 

文章:石塚


その他の参考サイト

※今日も8時間睡眠(「1+2+3+4+…=-1/12」をわかったつもりになる)
http://nakaken88.com/2014/12/08/080818#この式の罪深さについて

 

※1+2+3+4+… (ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/1+2+3+4+

 

※主婦と悪魔(無限足す1はどう考えても無限より1多いよね?)

http://sp.ch.nicovideo.jp/bookcomi/blomaga/ar674474

自分が本当にゴキゲンな状態とは何なのか

ある機械学習系のベンチャーの経営者と食事をした。その会社はグローバル人材を雇用して、マネジメントにインテグラル理論を応用しようとしていた。ウィルバーと言えば、「無境界」という悟りの感覚を西洋の概念を使って解説している本があるが、それを発展させた理論としてインテグラル理論が位置づけられていたので、すぐに興味を持った。しかし、書籍はすでに絶版になっていて、なぜか中古で1万円を超える値付けがされていたので、その経営者に本を借りて読んでみた。その読後感をまとめた。

 

インテグラル理論入門I ウィルバーの意識論

インテグラル理論入門I ウィルバーの意識論

 

 

ニーチェディオニソス的野蛮人 → アポロ的ギリシア人 → ディオニソスギリシア人 という流れで精神の成長を俯瞰している。その先は超人となる。ニーチェの超人に対しては、みんなが超人になっちゃったらだれが労働するの?という問いやツッコミはある。

 

インテグラル理論の応用は、そのツッコミへの対応とも考えることができる。超人的精神構造(レベル)になっても、意識状態(ステート)を行き来させたり、表現などの能力(ライン)を磨いたりして、社会とのつながり、もういっかいアポロと戯れるようなところの領域。一つの具体例として身体維持のための労働の部分をどうするのかとも言い換えることできそうだ。

 

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Integral Flow Experience with Bence Ganti (引用元)

 

 

 

人間は肉体と精神を持つ。肉体を維持するためには食べなくてはいけないし、精神を維持するためには情報と意味付け、ストーリーが必要だ。ストレスフリーでいるために、どうやって満たされている状態の時間を確保するのか。つい最近まで、いや現在も世界は帝国主義的に略奪することで欲望が満たされるという構造が続いている。いわいる欲望と戦争の歴史だ。

 

SNSなどの情報ツールの発展、経済がグローバル化することによる言語やサービスの混じり合い。そういうことが起きると、今までになかった視点を手に入れやすくなる。これは主に文化に関する感覚質(クオリア)と言えるだろう。

 

ギリシアのパブリックやポリス、平安京空海仏教ロココ時代の欲望の行きつく先、こういった構造には情報の非対称性があり、文化的な概念やクオリアの共有があまりなされていなかった。しかし、これらの非対称性は縮まってきた気がする。ここから取得できるのは聖なるものと、性なるものとも言える(笑)。

 

これは生活や活動を充実させるという意味において良い傾向と言えるが、一方で広がっているのはテクノロジーの仕組みに関する情報の非対称性だ。

 

たとえば、株式のトレーダーやビットコインで儲けている人に対して、なんか良くわからないけど怪しいとか、危ないとか、マジメじゃないとか、印象しか持っていない人がいる。しかし、彼らと話す機会があるが、ぜんぜん怪しくはない、金融工学や数学の知識はもちろん、売買するためのプログラムなどを自ら開発して実践している人もいる。ロジカルとエモーショナルを使い分けてリスクをとっている人もいる。印象だけになって、テクノロジーに対する情報を閉ざしてしまうと、結果的に搾取されていく時代になっているだろう。

 

本来、テクノロジーは格差を広げるためのものではなく、人間全体の労働を効率化するためにあると考えたい。よく機械学習ディープラーニングの統計的判断が人間の仕事を奪うという議論があるが、それは短期的な議論で、根本的な問題はテクノロジーへの技術的な理解と所有という概念と制度だ。

 

テクノロジーを基にして社会制度が作られしまうと、かなり強固な帝国になっていく。いまアメリカのテクノロジー企業を中心にこれが起こっているのではないか。テクノロジーは格差の間にある壁になっていく。テクノロジーは使い倒すもので、プログラミングや工学的な考え方を手に入れて、機械やシステムを奴隷してやるぞという個人が立つような感じにならないと、格差は進んでしまう。機械学習ブロックチェーンは最低限の教養として身につけておかないとマズそうだ。

 

ウェルバーは「現在は科学史観の真を絶対視する風潮が強い」と言っている。ある現象を語るとき、世界をみるとき、私の視点で語りすぎたり、科学的視点から語りすぎたりする。しかし、すべては多面的であり、バランスをとったほうが全体と個として最適になる可能性が高いのだ。どのようなバランス感覚が良いのか それは自分のインナーチャイルドと対話してみる必要がある。自分が本当にゴキゲンな状態とは何なのかを。

 

プラトンは、イデアは真善美の中にあると説いたらしい。カントは「純粋理性批判」において真を、「実践理性批判」において善を、「判断力批判」において美を探求している。ウェルバーは真善美をビッグスリーと呼んで、真を「それ 三人称 客観的な事実 科学」、善を「私たち 二人称 間主観的な合意 倫理」、美を「私 一人称 主観的な経験 芸術」として表現している。ウェルバーは社会とのかかわりを考えてか、真善美をさらに4つのQuadrant(象限)に分け「私(主観)、あなた(社会)、それ(客観)、それら(制度・文化)」としている。

 

 

個人的にはテクノロジーそのものがコンテンツになってしまい過ぎて、それが格差の壁になるようなことが起きてほしくない。コンテンツは美の中にもある。そのためには感覚を研ぎ澄ますために”私”を少しだけ強くしないといけないと思う。

 

上手にグローバル化するためには、西洋が持っている集団意識、超自我をどうやって相対化するのかがキーになりそうだが、自分の中の超自我や集合意識的なものに集中しても、西洋の規範に行きつく。これは戦後教育のたまものではないかと感じる。その規範を相対化するものっていうのは、なかなか見当たらない。

 

夏目漱石ポストコロニアルなものを一生懸命探して、イギリスにそのヒントがあると考えていた。最近では姜尚中が静かに動いている感じがする。西洋の思想を相対化できるようなものはいったいどこにあるのだろうか。誰かが概念、クオリア開発を行わなければいけないような気もする。奴隷のいない時代に、世界はどうやって循環するのだろう。

 

ウェルバーはテクノロジーのことはそんなに書いていないと思うが、教授になるなどのアカデミアの誘いを断り、皿洗いとしての収入で著作を書き続けたというエピソードがあり「自分の著作は、読書と思索と執筆と生活のありかたそのものとが一体となって初めて可能になる」といっている。ちょっと宮沢賢治吉本隆明入っているじゃんと思った。生活と活動から文化が生まれてコンテンツになり、美へと昇華する。しかし経済社会はそれをなかなか待ってくれない。

 

はたして、どんな解決方法があるのだろうか。神保町サロンでの思索は続く。

 

 

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(文脈はありませんが、ニューヨークで撮った写真w)

 

 

文章:石塚

意識の立ち上がりへ回帰してみる。

近代的自我は、他者との境界が明確で自由意志をもった責任を取れる主体。人が何かをするとは、意志をもって行動することである。よって人は自分の行動に対して、責任を取らなければいけないと言われる。しかし、そもそも意志があるってなんだろう。

 

精神症状などを考えてみると、アルコール依存症や薬物依存症は本人の意志ややる気でどうにもならない。正月の誓いなんて3日坊主の典型だし。こうなると、意志なんて、ほとんど当てにならない。

 

多くの人は、日常の些細な場面から人生の大きな節目にいたるまで、各人各様に、「する」と主体的だったり、「させられる」って受動的に行動していると思い込んでいるのではないかな。でも、「意志」や「責任」というものに大なり小なり懐疑をいだいたりすることもある。

 

 

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→『中動態の世界 意志と責任の考古学』


「普通」「正常」「当たり前」「常識」「社会人は」「男は」「女は」・・・これらの言葉の裏側には規範があり、秩序にあてはめようとする同調圧力がある。問題なのはそれと気づかず過剰に適応してしまうこと。無意識にそれが刷り込まれていくと、行動がコントロールされていることがある。でも、それに気づくのが「違和」なのだ。

 

→『「普通がいい」という病』


精神医学の世界では、正常異常の境界を判断がマニュアル化され異常者を量産し、薬漬けで正常を回復させようとする事が進んでいると聞いた。 DSMなどの精神医学では線引きするのではなく、スペクトラムで表現するのが流行だとか。

 

→『<正常>を救え 精神医学を混乱させるDSM-5への警告』


日常も日常から隔離される病も、問題の根っこは深いところで繋がっている。制度をすぐにどうこうするのは難しいので、当面の解決策は自分自身。瞑想などは、すすめていくと、インストールされていた言語がカッコにはいり、意識のコアは阿頼耶識の海に溶け出し、すべてと静かに繋がり、おおきななにかに包まれた感覚になる。言葉の囚われからものがれることができる。

 

瞑想をすると、身体の声が聞こえるようになるとか。身体というのは、媒体としての現象的身体のこと。

 


最近やってる神保町サロンでも同様のことを語っています。

 

近代化は、国民国家化、国内の産業革命=工業化、経済成長前提のシステム、そして文化的には西洋化すること。

 

そういう近代は終わってるはずなのに、近代の惰性がわれわれを縛っているようだ。医療も年金も成長前提。上場企業は成長を要求され、政治も成長の物語でしか政権を維持できない。

 

サロンに経済の専門家にきてもらったこともある。社会保障制度の財政(年金・医療・介護)はかなりやばいらしい。

 

国家が描く成長の物語から少し抜け出して、ニーチェの言う子供になってみてもいいかもしれない。ニーチェは、ラクダ:制度隷従者、獅子:自由に目覚めたもの、子供:道徳や規範からも自由な存在と言った。神保町サロンは、自由に目ざめ、子供になっていくための場所なのかなーと。

 

奥山

 

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