竹田青嗣 欲望論 書き途中
竹田青嗣の『欲望論』が面白すぎる。
私が気になっていた「存在と認識」についてはまずゴルギアスを引っ張ってくる。
ゴルギアステーゼ
1、およそ何も存在しえない。あるいは存在は証明されない。
2、万一存在があるとしても、決して認識されない
3、万一存在が認識されたとしても、決して言語化されない。
このテーゼを誰も砕くことができなかった。
個人的には、証明はできないがメモ用紙に水性ペンでその場所をなんとなく書くことはできたた。それを言語で近似値的表すと「善」だった。しかし、これは形而上学の域をでない。
さらに竹田はメイヤスーの「思弁的実在論」における「絶対的なもの」の存在証明へのアプローチは哲学的に極めて真摯だが、実在としての世界の本体に求めることは原理的に不可能と指摘する。
そしてニーチェとフッサールの哲学的達成の意義を明らかにし、本体観念を解体し、それを目的や主題とする形而上学と相対主義思想を没落させ、哲学的認識論のまったく新しい主題を打ち立てていく。
2017年 ワイアードカンファレンス(WIRED CONFERENCE 2017 "WRD. IDNTTY.")取材記事 「中動態の世界」の國分浩一郎さん×「リハビリの夜」の熊谷晋一郎さんの対話。「意志に対する身体の態度とアイデンティティ」
神保町サロン ワイアードカンファレンス取材記事
「意志に対する身体の態度とアイデンティティ」 (取材・執筆 神保町サロン 石塚・奥山)
『WIRED』日本版主催のWIRED CONFERENCE 2017 "WRD. IDNTTY."に参戦してきた。カンファレンスの目的は「ダイバーシティ(Diversity, 多様性)」と「アイデンティティ(Identity, 自己同一性)」の現代における再定義。アーティスト、写真家、経済学者、医師、哲学者・・多方面14人の話者による、7時間を超える白熱したセッションだった。
注目したいのは最終セッションの「中動態と<わたし>の哲学」だ。演者は哲学者の國分功一郎さんと医師の熊谷晋一郎さん。二人は神保町サロンでも度々話題になる医学書院のケアをひらくシリーズから著作を出版している。國分さんはその演題にもなっている「中動態の世界」、熊谷さんは「リハビリの夜」だ。ちなみにサロンには「ALS逝かない身体」を執筆した川口さんが遊びにきてくれたことがある。
書籍(「中動態の世界」「リハビリの夜」に関することを少し共有(石塚)
まず中動態の世界の冒頭には、アルコールや薬物の依存症者とのやりとりがある。当事者でもないと、「なぜ止められないのかな?」と自己責任とみなして突き放しがちな問題だ。しかし、依存症は本人の“意志”や、やる気や根性などでどうにかできる問題ではないのだ。そうなると“意志”とはそもそも何かという問題になってくる。
そして「リハビリの夜」の方は、熊谷さんが患っている脳性まひの当事者ルポという側面があるのだが、ただの体験談ではない。さすが医師である熊谷さんは、その体験を理論的にわかりやすく構築していて、脳性まひという身体感覚が無かったとして、その感じがどのようなものか、かなりの想像力を刺激してくれるのである。
では、セッションでの気づき共有していきたい。
セッションの冒頭で國分さんは分かりやすく“意志”を批判してくれた。(奥山)
「意志は、西洋文化においては、諸々の行動や所有している技術をある主体に所属させるのを可能にしてくれる装置なんですよ。ぼくらの責任の論理では、意志をもって行為したことが証明できないと責任を問えないんです。だから自分の意志で選択肢から選ぶ余地がなかったら責任を問えなくなる。意志という言葉は非常に曖昧であるにもかかわらず、ぼくらはこの言葉なしでは社会を維持できないような体系をつくりあげている。ぼくらは意志と責任を一体化させた法体系を信じているんです。しかし、この意志という概念は非常に大きな矛盾を抱えているフィクションなんです。」
現代社会において、自分の意志で何かをすることはその人自身の意志が行動の出発点となることを意味する。つまり、意志とは、過去を断ち切って責任を明確にすることに使われているのだ。しかし、実際には因果関係が無限に遡れるため、本当に何もないところから何かが起こることなどありえないのだ。
たとえば、ある男性が交通事故を起こしたとしよう。その男性には妻があり、妻は浮気をしていた。それがもとで喧嘩になり、イライラをひきずりながら一人で運転していて事故を起こした。事故の責任を問うためには、男性が車に乗る意志決定をした、それ以前の過去はなかったことにしなければならない。法律もそのようにできている。
また、今日は「パスタを食べるぞ」と思ってパスタを食べたとしよう。それは一見意志が行動の出発点になっているように思えるが、実際は雑誌パスタ特集を見て食べたいと思ったかもしれないし、友人にあの店のパスタは美味しいよと言われたかもしれない。そもそも「パスタ」の存在をしらなければそんな気持ちは生まれるわけがなく、意志がすべての始まりになっているわけではない。このようにわたしたちは責任を問うために因果関係を恣意的に策定しているのかもしれない。繰り返しになるが、國分さんはそれを「意志というのはフィクションだし信仰だ」というのだ。
現在、日常をよく使う「能動態/受動態」が「する/される」によって行為を分類するとすれば、「能動態/中動態」は行為が主語の「外側/内側」のどちらにあるかによって行為を分類する。國分さんが例として挙げた「惚れる」は自身の内側で行為が展開しているため中動態だというわけだ。中動態がある種出来事を描写するような言語であるのに対して能動態/受動態は行為者を確定させる言語だと國分さんは指摘する。ジョルジョ・アガンベンを引きながら、 さらにそれは行為者が自分の意志でやったのかどうかを「尋問」する言語でもあると語った。
(國分さんの「能動態/中動態から能動態/受動態に移り変わり」を示すスライド から)
いつからか「自己責任」という言葉が幅を利かせるようになったが、実のところ意志と結びついていない責任はいくらでも存在する。中動態について考えることは、「意志」と「責任」という概念と不可分かのように考えられている「わたし」を解きほぐしていくことに繋がっていく。
<國分さんの 意志に対する問題提起のスライド>
超越論的な意味の立ち上がりには、意志は存在していなかった。(石塚)
神保町サロンではよく「超越的・超越論的」といった感覚質が話題になるが、中動態の書籍の中にも超越論的というキーワードがでてくる。それはパンヴェニスとの中動態の定義「能動では、動詞は主語から出発して、主語の外で完遂する過程を指示している。これに対立する態である中動では、動詞は主語がその座となるような過程を表している。つまり、主語は過程の内部にある」といったものだ。國分さんはこの定義をカントの言う意味で超越論的であり、われわれが物事を経験する際の条件そのものを問うていると指摘している。
パンヴェニストの分析を借りれば、「生まれる、眠る、想像する、成長する」などは、動詞は主語がその座となるような過程を表しているために中動態となるが、驚くべきことに「存在する、生きる」などの哲学的な感覚質は、流れるや行くと同様に、主体の関与が必要ない能動態(この能動態は中動態と対応する能動態のこと)扱いなのだ。現在の能動/受動の感覚からは考えられないような捉え方だ。ここでわかることは、意志なんてまったく前提になっていないということの再認識だ。古代ギリシア人たちは意志なんて、まったく関係なく言葉を使っていたのだろう。これはデカルトがでてくるまで、ある程度続くことになるのだから驚きだ。いかに我々が近代的なものの考え方に支配されているかが分かって、ちょっと恐ろしくもなる。
身体と中動態の結びつき(奥山)
熊谷さんは、國分さんが『暇と退屈の倫理学』を出版して以来、「暇」や「退屈」と依存症の結びつきについて議論を重ねてきたという。トラウマを抱えた人々は暇になると、過去の耐え難い記憶が蘇り、それに耐えるために薬物や自傷に手を出してしまう。それは過去を打ち消すために発動する行為ともいえるが、熊谷さんは、記憶に対するこうした身振りは退屈に対する気晴らし行為や、これまでの意志の在り方に直結するものであると指摘する。それは中動態的な生を否定するものでもあるという。
熊谷さんはセッションでこう語った。「過去の記憶の蓋が開けば地獄が訪れる人にとっては、蓋が閉まっていたほうがいいわけです。つまり、過去を切断したい。それ以上遡れない状態にしたい。いまを出発点にしたいと考えてしまう。それほどまでに過去が地獄だとしたら、無から始め直したい、意志の力によって現在もしくは未来しかないという生を生きたいと思っても不思議ではない。つまり、中動態を否定したい、100パーセント能動態の状態になりたいと思ってもおかしくはないと思うんです」。
熊谷さんは、意志というフィクションによって過去と行動を切り離したとしても、そんな戦略はうまくいかないのだと指摘する。依存症からの回復においては切断してきた過去の記憶にもう一度目を向ける必要が出てくると述べる。そして、依存症からの回復のために採用されているプログラムが実は「中動態」と密接に結びついていることを明かした。また、依存症の自助グループのなかで採用されている『12ステップ』というプログラムのなかでは、人を能動態から中動態に戻す装置が張り巡らされているという。
例えば、アルコール依存症の援助団体である「アルコホーリクス・アノニマス(AA)」(http://aajapan.org/introduction/)の12ステップのうち冒頭の三つを抜粋してみてもそれが分かる。
- 私たちはアルコールに対し無力であり、思い通りに生きていけなくなっていたことを認めた。
- 自分を超えた大きな力が、私たちを健康な心に戻してくれると信じるようになった。
- 私たちの意志と生き方を、自分なりに理解した神の配慮にゆだねる決心をした。
依存症の脱却プログラムの冒頭で、自分のコントロールではどうにもならなくなったと意志に対するこだわりを捨てる。そして、ステップが進むにつれて、過去を振り返り、さらにもう一度引責のステップが来るようだ。意志とは異なるかたちで「責任」という概念を考え直すことは、國分さんが中動態研究を通じて行っていることでもある。熊谷さんはそれを依存症という当事者研究から読み解き、そこに中動態との結びつきを見出している。
「意志とは違う位相で責任を引き受け直す」とは何か。(石塚)
カンファレンスよりちょっと前に、ワイアードのウェブサイトで、國分さんと熊谷さんは対談をしている。
國分功一郎×熊谷晋一郎:「中動態」と「当事者研究」がアイデンティティを更新する理由 #wiredcon|WIRED.jp
ここに熊谷さんのこのような発言があった。
「過去を振り返り、さらにもう一度引責のステップが来るんです。これは意志とはまた違う位相で責任を引き受け直すというプログラムになっているという直感があったんです。」
この「意志とはまた違う位相で責任を引き受け直す」という部分が今後の哲学のヒントになるのではないだろうか。ヤスパースの「罪」の概念、カントの『道徳形而上学原論』における定義、そしてスピノザの「本質」や「流動的なもの、軟らかいもの、硬いもの」「コナトゥス」などの感覚質で世界を捉えなおすことによって、医学的な診断や、果ては刑法の責任の所在まで変えるようなところまでたどり着くことがあるかもしれない。
インタビューの機会があれば熊谷さんに「意思とは違う位相」とは何か聞いてみたい。
以上。
「人工知能は人間を拡張させ、人間観に変化を与え始めている」
▼神保町サロン(物語から解放される時代を生きる)交流イベント #3
大テーマ「人工知能は人間を拡張させ、人間観に変化を与え始めている」
AIの進歩は、人間が労働から解放され、活動の時間を増やすきっかけになるとも言われています。またセンサー類で取得したデータは人間の五感で感じ取れる世界を超えて、あらゆる情報を可視化してくれるようになるでしょう。AIによって拡張され、AIによって余剰の時間を手に入れた場合に、人間はどうなっていくのか。そんな大きなテーマに対して、ITジャーナリストである湯川さんと、高野山真言宗高福院(目黒)の副住職である川島さんに示唆を頂きます。
現在、テクノロジーの発達やグローバル化などによって時代の変化、そして人間の心の変化を感じながらも、現状の制度を使ってビジネスを回さなければいけません。しかし、問題解決をするビジネスから、問題を発見するビジネスへニーズが移行しつつあるのではないでしょうか。
今回は目黒のお寺で限定20名で開催します。場所がいいこと、良いエネルギーの人たちがいること、それは問題を発見する、問いを立てる環境としては最高の条件だと思います。自分のマインド、視点を変えるためのきっかけとしても、ぜひご活用ください。
参加希望の方は秘密のフェイスブックグループに招待します。こちらでは、当日の音声と神保町サロンの事務局がメモしたファイルをシェアいたします。また講師や参加者同士での質問などをすることもできる環境にしたいと思っています。
▼コンテンツ
1、「人工知能を使ったクラウド(ボイス)戦略 人工知能系各社の新たな戦略とは」(湯川鶴章)
2、「AIに空(くう)は理解できるのか、瞑想はできるのか。」(川島俊之)
3、フリーディスカッション
1、「人工知能を使ったクラウド(ボイス)戦略 人工知能系各社の新たな戦略とは」(湯川鶴章)
AI時代を牽引する2つの企業「NVIDIA」と「DeepMind」。
NVIDIA社は2012年以来、AI研究者のご用達の企業となった。その影響力はGoogle、Facebook、Microsoft、Baiduなど名だたるIT企業を含む約3400社にも及ぶ。業界はヘルスケアやライフサイエンス、エネルギー、金融サービス、自動車、製造、メディア・娯楽、高等教育、ゲーム、政府などいまはNVIDIAの影響力は留まるところを知らない。
DeepMindは世界最高位のプロ囲碁棋士をやぶった「AlphaGo」で一躍有名になった。DeepMindのアプローチは、AI自らが学習のための行動を決める能動的AIで、その能動的な行動で取得した生データをベースに学んでいく汎用目的のAIを作ることにある。現在の応用領域は「記憶・注意・概念・計画・ナビゲーション」などだが、データの蓄積やプログラムの改良、コスト削減などが進めば、今後はsystem complexityと呼ばれる複雑系の問題として、気候・病気・エネルギー・マクロ経済・物理学などにも応用ができるようになるかもしれません。
湯川さんは、実際にアメリカにわたりAI企業やカンファレンスを独自取材しています。また、湯川さんは孫泰蔵さん、春田真さん、石黒浩さん、橋田浩一さん、松尾豊さん、吉藤健太朗さんなど、話題の研究者たちとも日々ディスカッションしています。現在のAIの潮流に触れられるチャンスです。
※湯川鶴章(ゆかわ つるあき)
ITジャーナリスト。時事通信社元編集委員で、同社公認ブログ「湯川鶴章のIT潮流」を執筆していた。2009年で退社後は「TechWave」初代編集長、TheWave湯川塾・塾長を務めた。ニューズウィーク日本版でもコラムを持つ。
2、「AIに空(くう)は理解できるのか、瞑想はできるのか。」(川島俊之)
AIが意識を持つことはあるのでしょうか。AIが自身で考えだす、動き出すということがあるとすれば、それはいかなる仕組みによるのでしょうか。
真言宗では、意識に現れるすべての現象は、大日如来を根源とすると言われています。では意識を持つAIは何によって考え動くことになるのでしょうか。
AIの進歩をそういった側面で考えていることをお話ししたいと思います。
(川島さんは昨年7回にわたって、「共感を哲学する」と題して高福院にて哲学塾を開催していました。マーケティングや組織形成にも必要な「共感」をかなり深いところまで掘り下げて考察されています。)
※川島俊之
高野山真言宗高福院副住職。グローバル・ブレイン株式会社(ベンチャーキャピタル)のパートナー等を経て現職。
3、ディスカッション
湯川さんから川島さんに聞きたい事、川島さんから湯川さんに聞きたい事、そして参加者の皆さんからお二人に聞きたい事など、自由にディスカッションする時間を設けたいと思います。
主催の神保町サロン奥山・石塚からは下記の質問を聞いてみたいなと思っています。
・AIが意識を持つと言っている研究者の根拠はなにか(湯川さんに)
・仏教が数千年も廃れず、科学が発展した時代でも役割を担えるのはなぜか(川島さんに)
▼申し込みはこちらから
http://peatix.com/event/317760
▼日時・場所・参加費など
11月5日(日) 15:00開始 17:00頃中締め その後 懇親会も用意しています。
高野山真言宗高福院(目黒) 東京都品川区上大崎2-13-36
JR山手線「目黒駅」東口から徒歩2分。 https://goo.gl/SUXKmg
会費 一万円
■定員20名限定
■主催・当日の進行担当 神保町サロン(奥山・石塚)
※神保町サロンは毎週水曜日に哲学・美学・経済・価値観などについてお茶をしながら語る会です。
http://jinbochosalon.hatenablog.com/entry/2017/06/15/175149
美が存在を救う。
現代哲学は、背景を政治や国民国家や経済に置くことが多く、批判的に相対的に価値を引っぺがして虚しさを呼び、その回避として無責任に生きろとか、遊ぶ技術を身につけろと言う。勝手に遊べる人はとっくにそうしているだろう。
ロジェカイヨワの「人間と遊び」を引用して遊べと語っていた自分もそういう主張をしていた。
しかし、国民国家や家族制度や意志や近代的言語などの相対化から少し離れ、経済や労働と同じくらい重要で、生きていると勝手に湧き上がってくる活動に重きを置くと少し様子が変わってくる。
活動の源泉は何なのか。ギリシア古来から語られているものに真善美がある。
真善美の中でも特に現代における美はカントやヘーゲルによって認識論的な趣味的なところに押し込められてしまい、窮屈な思いをさせられているが、美をしっかりと理解していけば活動の指針になるし、アイデンティティや存在をも担保してくれる力になる。
プラトンは「天上の善のイデアおよび美のイデアを見た者は、その素晴らしさの記憶によって美を感じとり善を求める」と言った。
レオナルド・ダ・ヴィンチも「芸術家は自然の幾何学的構造を美というもっとも理想的な状態において再提示する能力を持つ幾何学者だ」と言っている。
言葉を上手に使うためには概念という概念がわかることが重要なように、美を理解するためにはクオリアという感じ(クオリア)がわかるのかが重要である。
超越体験や変性意識がわかるとそこが理解しやすくなるだろう。そして、美を理解した上で善に進むと非常に順番が良いかとおもう。
サルトルは他者からの眼差し(定義づけ)を極限まで高めて「地獄とは他人のことだ」と言った。会社にいると他者の評価ばかりを気にする人がいる。それはまさに地獄だろうから、そういうところからの逃げ場としてみまず美を理解し、自分の存在を担保してから他者との関係を考えていったほうが良い。
1200年続く高野山には、永続的なビジネスシステムが動いていた。
関心のきっかけは、神保町サロンに来たゲストが「高野山の宗教都市は空海が作ったシステムで、まだそのシステムは生きている」、「空海は、結界を張って流れを創った」と立て続けに高野山、空海関連の話をしていったからだった。
そこで、実際に高野山を訪れて、私のビジネスの領域とも重ね合わせ「高野山を舞台に空海が作った壮大なビジネスモデル」という視点で見てみたいということに関心が向いた。
高野山には、10万とも20万とも言われる墓や慰霊塔、供養塔が並んでいる。戦死者の供養塔は、戦地や戦隊などに分かれあちらこちらにあるし、生きた時代には争い合った戦国武将らの墓も、今は静かに向かい合っている。しかし、いまだ誰のものかわからない墓が多数あるという。戒名から実名を割り出す気の遠くなる調査が続いているそうだ。
高野山の二大聖地のひとつである壇上伽藍の周辺を歩いている時、壇上伽藍の大塔で立体曼荼羅に入った時、霊宝館で金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅に囲まれた時、息苦しさや内臓の鈍い重量感を感じた。二日酔いに似たような、他で感じたことはない感覚があった。
数多くの五輪塔などを見て、人はこんなにも救われたいのかと思う反面、ここで救われるなら、安らかになれるかもしれないとも思った。
その場の空気は静かで重く、ときに息苦しさを感じるほどの囲まれ感と秩序感でもあった。早くここから脱け出したいとも思った。
静かに重い秩序感・囲まれ感、それは強い権力的なもの、外圧的なものではなかった。透明感のある、破れそうで破れない薄膜のような。外からの力だけでなく、人が内面から求めてできあがった秩序。それをつくったのは空海だが、救われたいという心、即身成仏を求める多くの心がそのシステムを維持してきたのだろう。
自分の両親は、いろいろ事情があり、入る墓がないという。散骨してと笑っていたけれど、昭和ど真ん中世代の価値観を考えると本気とは思えない。これだけの心が集まり、多くの人が常に参拝する、こんな地ならさびしくないし、毎日祈ってもらえるし。ここに眠りたい、眠ってほしいという気持ちは、それは至極自然なものかな、そのためにお金使うのもわかるよね、だってお金はあの世にもっていけないし、なんて俗っぽいことも考えながら、もう一つの聖地である奥の院へ参道を歩いた。
壇上伽藍のあたりを抜けて、奥の院への参道付近では息苦しさが無くなった。空気の質感が違って感じられたのだ。とても面白い体験となった。
ところで、高野山は宗教都市であり観光地でもある。
しかも、一朝一夕でできあがった観光地ではない。1200年の歴史がある地だ。この現実に、実はやや驚きがあった。
戦国時代、宿坊は、高野山の寺院にとって、生き延びる術になっていた。寺院を守ってもらう代わりに武家と檀縁を結び、経済的な援助も受けていたという。戦国武将の墓所が多いのは、この時代からの縁に由来する。江戸時代には、参拝客に宿泊を提供していた。
インバウンドが盛んな今は、宗教都市としてミシュランなどに掲載されているらしく、欧米からの外国人観光客が多い。宿坊を営む僧侶は外国人観光客相手に英語で対応をしている。夜には、観光客受けを意識した奥の院ナイトツアーなども開催されている。また、WIFIを完備し天然温泉をひく寺院もあった。宿坊と観光が、高野山と寺院の経営を支える重要な事業であることは、時代背景が変わっても同じようだ。
1200年続く高野山、そこには、ビジネスシステムとしての永続性が考えられ、組み込まれ、継承されているのだと思う。ビジョン、目的、経営資源、人材、共感されるSTORY…。
空海の作り出した仕組み、このあたりをもっと掘り下げて調べようと思った。興味は尽きない。
高橋
生きるセンスを描いた映画「この世界の片隅に」
神保町サロンにて「この世界の片隅に」が話題になっている。今後のネタにもなるので少しブログに書いておく。
この映画を一言で例えるなら「生きるセンス」を描いた映画と言えるのではないだろうか。
全体を通してカット数は多いと感じた。特に前半は記憶処理のようにシーンがパッパ切り替わる。絵そのものの情報量は多く、写真でいうとパンフォーカスというか、絞りがなく、画面全体に様々な情報が散りばめられている。
このような情報の多い描写の中で、すずは自然や社会状況や構造からくる情報をそのまま受け取っているように描かれる。それは自分のストーリーを生きるための意味づけの情報処理ではなく、常にパラレルワールドを意識したような情報処理をしているとも言える。
映画の中にでてくるすずの絵は写実的なものが多い。世界を記述しようという活動、遊びだ。レシピなどもメモしていたり、軍艦を書いて憲兵に目をつけられるあたりは、すずの情報量の多さが分かる描写だろう。
映画の中で繰り返しでてくるテキストに「爆弾落ちたら魚が浮く」というものがある。これは普段は質素に配給で暮らしているが、爆撃があると魚が巻き込まれて死んで海に浮いてくるので、食料が増えて嬉しいというものだ。これは戦争は最初は国同士の戦いから始まるが、そのうちに戦争そのものと市民の生活との戦いになることを上手く言い表している。生活視点の民話のような構造だ。すずの書く絵もすべて生活という視点に還元されていることは生活者の強さが現れていると言えるだろう。
映画の終盤で、すずは空爆を受け一緒にいた義理の姉の子を守りきれず亡くしてしまい、すず自身も右腕を無くす。さすがのすずも喪失感にかられるが、子供のころからの知り合いで、遊郭に売られたリンから「人間何かが足りないことはあっても、居場所はそうそう無くなりゃせん」と言われ徐々に活力を取り戻していく。ここはアニメよりも漫画の方がより描写が細いようだ。
最後では、いままですずの視点で描かれていた映画に初めて他者視点が入る。広島の原爆で母を失った子供の視点だ。その子は生きる力そのもので生きようとしている。パラレルワールドを自然にやってのけるすずはこの子の視点をすぐに受け入れて一緒に生活を始める。すずの生きるセンスを強く感じさせる描写だ。
人は何かを失う。しかし逆に何も持っていないということは、何かを受け入れやすい状況にあるともいえる。所有の強度とは何なのかについて考えさせられる。